「聞こえること=コミュニケーション能力がある」ではなかった! その5

かつて私は「性同一性障害とは『自己認識と他者認識の不一致』というコミュニケーションの障害である」で語ったことがある。その認識は7年の年月の流れた今でも変わっていない。ただ7年前とは違うこと。


 「聴覚障害でなくてもコミュニケーション障害になることがある」という事実をたくさんしったことである。そして、「『聞こえること』がコミュニケーション能力を必須条件ではない」ということをしったことである。そして、「人間は一匹狼で生きることはできるが、ひとりぼっちで生きることができない」ということである。

 そして見渡してみれば「五体満足なのにコミュニケーション能力がまったくない」人たちがなんと多いことか!


 そして「『聞こえること』に固執してコミュニケーション能力!=聴覚 であるという事実に気づけない聴覚障害当事者と聴覚障害教育関係者。


そう、「聞こえなくても」コミュニケーション能力を健聴者以上にたかめることは可能なのである。


 おもしろいことに気が付いた。実は日本でコミュニケーションで四苦八苦する私が外国にでると健聴者よりもコミュニケーション能力が高くなるのだ。言葉が不自由でも、である。どうも健聴者の場合「何といわれたか」と考えてしまうのに対して私は「この状況で何を必要としているか」を基本に考えるからだということがわかった。ためしに私に復唱させてみるとわかるが、人の台詞を忠実に再現するのはものすごく苦手だ。言葉づらだけは聞こえていないところもあるので流暢にはでてこないのだ。そのかわり不完全な言葉をなげられてもその意図する意味をほとんど即座に正確にとれる。実はそれは私は健聴者であれば誰でもできると思っていて、できない人をみると「バカだ」と思って軽蔑していた時期もあったが、実はそれ自体が特殊な能力らしい。
 

たとえば、ろうの人から「性同一性障害の治療が『進化』している病院を教えて」ときた場合、健聴者のほとんど90%がその質問を意図をつかまえることができない。


「『進化』とはどういう意味だろう」と考えてしまう。


よくて「性同一性障害に関する最先端の医療をしているところ?どこだろう・・・知らないなあ」となってしまう。私はこう答えるだろう。


「関東で私立なら埼玉医大、関西で国立なら岡山大学」と。


最先端でなくていいのだ。要は「対応している有名病院」を知りたいのだ。
なぜかというと質問を発したろう者が「性同一性障害の治療」に対して無知であるという現実があるからだ。
要はそこに気づけるかどうかの問題だ。


※2009年現在埼玉医科大学では対応していません。詳しくは大学病院および関係患者会への問い合わせをお願いいたします。2009年4月17日


 しかし、この能力のために逆に状況の判断間違いをすることも多々あった。聴覚障害がなくてもコミュニケーション障害があることを知る前は「言葉の表現ではなくその言葉の裏に隠された当事者の心情のほうをくむ」という理解の仕方がすべての人ができて当たり前で解釈できない人間のほうがおかしいと思っていた。言葉の表現ミスのために誤解がおきてトラブルが起きている人の仲介にたったときに「相手の立場にたった表現を考えずに表現ミスをしたことが悪い」のではなくて、「間違った言葉の使い方による怒りの感情におぼれ、その意図をよめなかった人」が100%悪いと考えたそのように対処したことがあった。それはもしかしたら聴覚障害で言葉が不自由で自分が意図する気持ちを正しく選べなかった時代にその言葉をもてあそんでいじめ、「自殺することを考えるまで追い詰めた」健聴者への無意識の復讐だったのかもしれない。今はその判断は「問題」でまちがいであったと反省している。


 いずれにしても30歳になった今ではコミュニケーションに関しては少し違った考えをもっている。それは29歳のときにとあるIT現場での失敗で生まれて初めて「健聴者でもコミュニケーションによるミスはあり、それをコミュニケーション能力によって切り抜けている」という「事実」を知ったからである。それを29歳という年齢にもかかわらず厳しくそして優しく指導して、悩んでくれた人がいたからかなり助かって、今の仕事に格段にいかせている。その人には感謝しても感謝しきれない。


 そして私の多くを語らずに悟る能力がコミュニケーションの不自由な人には「自分の気持ちをわかってくれる人」ということで信頼されるが、同時にコミュニケーション障害のリハビリには向いていない。コミュニケーション能力を伸ばせないまま問題にぶつかることも多くなるのだ。私に通じたからといってほかの人に通じるとは限らない。それは簡単にいうと「理解してくれる人に通じたからといってそれが他の人に通じるとは限らない。しかし、理解してくれる人間だけで周囲を固めるな!」ということである。


 だから最近の相談のやり方はめんどくさいことかもしれないが、意図はわかってもわざと「質問を投げる」という方法をとるようにしている。「相手の言葉をうけてそのまま聞き返すようにしている」。そうすることによって最初はコミュニケーションの不自由な人でも学習してうまい聞き方がわかるようになるからだ。


 近年、コミュニケーション能力を鍛え方を幼児教育の記事などで目にする。やはり、「意図がわかっていても」わざと無視して「質問を返す」というやり方であった。こうすることによって、「必要なことをきちんと表現する能力」が身につくのだそうだ。


 古代アステカ文明では「うそをついたら死刑」であったという。そのため「コミュニケーション不全」が原因で「死刑」にならないように、アステカの子供の教育の必須は「コミュニケーション能力=正しい言葉で正しく表現すること」に力をいれた。日本の教育で国語能力が格段に落ちたという。こうしたことが最近のBBS等のトラブルにもつながっているのだろう。


今あげたなかに「コミュニケーション」に関するここの「能力」にはあらゆる側面があることに気がついたであろう。そのここの能力については別にゆずりたい。