医療コーディネーターのルール
ある相談事のために気分が沈んだ。気分がしずんだらメンタルが悪化した。
もう医療コーディネーターのボランティアをやめようと思った。ねたさえなければそこで問題はおわる。
スパイエージェントのような生活と縁をきりたいとも思った。
「もうしんどい。これ以上『障害』にふりまわされるのはいやだ。やめよう。」
自分の現在の悩みの今のところの答え。「いつまで障害に特化した医療コーディネーターやるか」。
だけど、ほかの多くの人はきちんと情報提供上のルールを守ってくれている。
今のところちゃんとわかってくれている人たちばかりなのだ。
今かかわっているその人たちのことを考えると今やめるわけにはいかない。
悪いことがひとつあるとそこに神経がいってしまう。解決するまでこだわってしまう。
自分でもものすごい神経質だな、と思う。
私と同じ障害の治療に関する情報提供はある友人をラストにやめる予定だった。しかし今そのことで悩んでしまっている。
予定では2009年エジプト出立までだった。だいたい今かかわっている人たちはその範囲内におさまる。
でも「もう少しやはく切り上げてしまおう」という気持ちもある。
いちばん大きいのは「3年もつか」という問題。理由は「僕のあり方」が変わってきていること。
基本的に医療情報の代謝ははやくて大体半年単位でアップデートする。
僕個人の情報網ではとてもカバーは不可能だから、ほかの情報網を使うことが多い。
だからこそ、アジア、アメリカ文化圏の医療情報がはいるわけで。
(ヨーロッパ、オセアニアは非常に弱いです。)
ただし、私がもっているのは基本的にはINDEXのみなので具体的詳細になるとしかるべきところにアクセスしてひっぱってこないといけない。そのためにはしかるべき手続きがいる。
だからこそややこしいルールがあって、これは私だけではなく、ほかの活動家たちも運用はどうあれ、ほぼ似たようなルールを持っている。たとえていうと花柳界の「お茶屋さん」の「一見お断り」。また私自身の行動もスパイエージェントのようになる。「一見お断り」は「つめたい」ように感じるが個人個人にとっては医療情報のみならず、将来設計のメンタリングなどきめこまやかなケアができるため、サポート力が強い。「信用、信頼」がベースになっているからだ。逆に「信用、信頼」を失うようなことをすれば「あの人には気をつけて」ということで「出入り禁止、二度とかかわらない」になってしまう。
私の役割はその情報へのゲートウェイの役割、つまり「窓口」である。その手の難しい問題の敷居をさげる役割をしているだけである。情報を循環させて、振り分けたり集約したりしているだけである。それは私自身の価値観、目的ともつながる。
これは「情報提供者の安全を守るため」のルールだ。実際わずか数年前はそれこそ当事者のいろいろな利害関係を抗争で流血事件すら発生するほどだった。だからこその優先順位、「安全」。情報をもたない新人が楽に行動できるように具体的な情報をHPにアップしないでややこしいルールを書いている理由はこの「エージェントたち」の利害関係の調整が困難、いや事実上「不可能」だからだ。私が医療情報提供を書くことで他のエージェントの利害をおかす場合がある。逆にエージェントが倫理上好ましくない行動をしたときに書いた私の信用も落ちる。本来は「信頼」でむすびつくしかないが、現実は「できない」。
だから当事者個人が動いて「当事者自身の価値判断で可否を判定し、利用する」ことを前提に記事の書き方をしているのだ。
医療情報提供のためにはこのエージェント活動をどこまで続けられるか、という問題である。実際問題は「むずかしい」。
いちばん大きいのは「世代交代が起きていること」と医療コーディネーターをするエネルギーがもうなくなってきていること。
「当事者性」がなくなるとひどく情報のUPDATEが難しくなる。特に提供場所は「生」の人間の情報だから当事者性がぬけると難しい。
だから実はガイドライン第3版すら現在よんでいないし、解説をつくろうと思いつつ、作る元気も余裕もない。「やりたい」とは思うが優先順位は低い。しかも日本国内の病院では「ガイドライン第3版」まわりで重大な事件があるようだ。それすら調査、確認する余力がない。
「徹底的に話し合う以外の方法はないよなあ。」
原因は「価値基準の不一致」が根本にある。
だから良かれとおもってやっていることの状況判断が相手にとっておかしい、ということになってしまっている。
こちらが常識として運用していることが相手にとって常識でないことも十分にありうる。
また、私独自のルールや運用方法も相手が理解できていないこともあると思う。
健康の回復を祈ってくれた大事な人だからこそ。
たぶん僕自身のスタンスをはっきりとわかりやすく相手に伝えてから双方の解決方法を探る以外ないだろう。
その人のいい分だけを飲むことは僕のキャパシティ、方針上上できない。
もしも友人のいうとおりにするとその人の本当にのぞむ情報は僕からはだせなくなる。
すごく大きな「矛盾」になる。それで葛藤することが僕にはひどく苦しい。
だから話してみるしかない、そのためには僕がもつ世界観を「自己開示」することだ。
自己開示しないと情報はとれない。
「俺は彼を本当に知っていたのだろうか、理解しようとしただろうか」
「情報だけ提供して彼のことしろうともしなかったのではないか?」
「彼は自分自身のことを俺にしってほしくはないのかもしれない」
「その状態で情報提供するのはひどくつらい」
「おれ自身のルール、背景、役割、ポジションをわかってくれているつもりでいたのではないか?」
「それは『甘え』だよなあ」
めずらしく「すごく傷ついた」と感じた。理由はわからなかった。たぶんそこに原因があるのだろう。