「社会的役割」ということ

土日は新年会2つ。研修の仲間とGID活動関係の仲間と。


しかし問題のある負の事件もおおすぎて神経が疲れすぎて本日休み。だめじゃん。そして1日中眠り続けた。


どうしてくれよう…という感じなのだけど。


神経が疲れてしまう原因は「自分自身だけで解決する問題」ではありえない。その点はさとし自身が非常にせっかちでめんどくさがりやで時間に対して「けち」だから悩む前に行動を起こして結果をだしてしまう。自分自身の問題に関してはそれほどでもない。ところが問題は100%人がからんでいる。理解不能な出来事があったときに問題を解決するまで思考をつめてしまう、解決するまで思考をやめない、そのために最終的に疲れきってしまうのだ。特にさとしが「友人」と考えている人たちに対してはそうだ。結局心配性だし、めんどうみたがり、またその反面裏の悪魔の心としてはもともと「人間の好き嫌い」が激しい人なので要は「友人がさとしの嫌いな人間になってほしくなくて」干渉してしまう、ということもあると思う。


結果、身体的精神的な負荷が強くかかりすぎてしまって、最終的に見放してしまった、ということも多かった気がする。


まずそこを考え直そうと思う。正直もうその時期かもしれない。


昔は違った。活動について、「情報は与える、あとはどうするかてめえで考えろ」という方針を5、6年ぐらいつらぬいていた。


しかし、それだとその人の問題を解決する時間がとてつもなくかかってしまうし、ベースとなる知恵や哲学、つまり「価値観」、それがまったくちがった場合に使いこなせない場合がある。


情報は情報だけでは「いかせない」のだ。情報に裏づけされた「価値」を知らないと。またその情報を利用する自分自身の「価値」を知らないと。そしてその価値を人に開示していかないと、「情報」の意味はさとしが意図して提案したものと違うものになってしまう。


時間をつくってさとしが10年間GID活動に専念してきた理由を自己開示しようと思う。


ここ数年「活動スタンスの開示」、これをしないといけないのではないか、いやそれは「恥だ、知らないほうが悪い」とかいろいろと葛藤していた。しかし、人の価値観やものの感じ方の多様性がさとしが考えていた以上に大きいことがわかったのできちんと開示する必要性にかられている。


今回はエッセンスだけ。まず「役割意識について」。

◆現実の社会的役割
まずさとしの感じている社会的役割:「混沌とした世界の秩序の回復」。
原理原則を洗い出して、その世界にルールと秩序をとりもどす。


現実の行動:
秩序がはじめからある場所で実力を発揮することが難しい。さとしが「仕事ができた」と感じる瞬間はたいていそこに横たわる「課題」を解決した、と感じたとき。その瞬間というのが「ぬける」…。「ぬける」という言い方はやめよう(笑)、とにかく気持ちいい。最初にはいった会社の方針もあるのだが、「破綻したプロジェクトの応援」的な仕事が多かったし、そういう場所でこそ、活躍していた気がする。


いやだと感じる状況:
原理原則という基準を乱されたくない。わけがわからなって動きのとりようがなくなる。状況の解釈不能。仕事を失敗する理由の大半は「なあなあ」の状況が物事が流れている場合。そうするとパニックになっていてとんでもない行動を起こしていることがあるため。

もっと深い本音:
「耳の障害」という物理的な障害をかかえているため、あんまり混沌として状況をキャッチアップできないと場合によっては生命にかかわるという切実な事情があり、原理原則がつかめない状況というのが非常にこわい。→社会不安、臆病もの。
今だんだん苦手になっているが、新しい環境へ行く際の予習はいく場所の地図すら暗唱するぐらい徹底的にする。


そのために使っているツールや考え方:
ものごとを可能なかぎりシンプルかつ単純化してとらえる。むずかしく哲学的に考えることや「人間心理は複雑だからね〜」で思考を停止しない。「シンプル化」することを追求してみていると問題解決のヒントが見つかるし、問題をほかの第三者と共有しやすい。


◆想定する社会的役割
さとしの考えている社会的役割:「問題を発生させているシステムの破壊および問題解決のシステムの構築」
「ものづくり」より「破壊」、そっちのほうがすきなんだということに気がついた。


現実の行動:
GID活動も聴覚障害の活動もここの役割意識がベースになっている。若いときは「僕の自己実現をじゃまするシステムはすべて破壊してやる」の意識で動いていた。そのために14歳のころから社会的なシステムについては同年代の子よりくわしかったと思う。

結果:
1、さとしがかかわったもので実現したもの
難聴学級の名簿順(1986年)、GID特例法(2003年)、九州のGIDの協力医療機関開発(2003年)


2、さとしがかかわっていないもので実現したもの
障害者の欠格条項見直し(聴覚障害者の視点で)(2001年)


3、さとしがかかわったもので実現できなかったもの
某中学校の校則改正(1989年)、公的書類の性別欄削除(就職等で必要な住民票など)(1998年−2002年)、住民基本台帳ネットの開発阻止(2000年−2002年)


いやだ、と感じる状況:
行動の強い原動力になっているものであるが、身体格差と地域格差を生むシステムのために「自己実現ができないこと」。余計な時間や費用や精神的エネルギーをとられること。「障害問題のために10年費やすなんでばかばかしい」が基本思想。ちなみに開発するためには10年20年かけているが、これをレシピにしてUPしているのが当HPで、これは今現在で最短4年でGID問題が解決するように設計されている。「とおってきた道でエネルギーを費やす」よりも「先輩たちが通ってきた問題はさっさと解決して「可能な限り生活のQOLをあげてほしい」との願い。「なるべく多くの当事者に五体満足の人と近い人生設計を」が基本的目標。


もっと深い本音:
実は生活の最底辺をいきている「障害者」よりも、ある程度QOLの高い「障害者」の問題のほうが問題解決のスピードが速い。それは各業界の有名な障害者たちが「元五体満足者」か「五体満足の人の社会で生活」し、「五体満足の友人を多くもっている」そして、「高学歴または高職能者」であるところからも察することができる。


たとえばGIDの法的問題がわずか10年で可能になったことに対し、ハンセン氏病の場合60年かかっている。


また、GID聴覚障害だけで有名な当事者を政界、法曹界、経済界、医学界、教育業界、社会活動家、研究者など名前をUPするとその差は歴然とわかるはずだ。GIDの場合はOB会ができそうなほどUPできるのにくらべ聴覚障害は?その現実をまず認めるべきである。かつてトルコのケマル・アタチュルクが女性の地位をあげるために「トルコ初の女性…」を短期間で多く養成しようとしたのと同様で実際に人間の生活基盤すべてにかかわる業界に当事者を送り込んだほうが問題解決が早いのである。(だから障害者の欠格条項なんかあったらいけないのである。)


その理由としてGID当事者の場合、「社会を動かす側の人間に限りなく近いところ」に存在する人口がほかの障害者に比べて圧倒的に多いからである。つまり社会を動かせる「コネクター」の役割を果たせる人が多い。逆にかぎりなく「五体満足」に近いためにGID当事者の苦悩が理解されず「わがまま」とみなされがちな理由でもある。逆にいうと本当に困っている障害者というのは上記の条件をみたすことすら不可能だし、そのような状況にあることすら認識されないし、「無視される傾向」にある。


そのために使っているツールや考え方:
「目的を遂行するために手段を選ばない」。選んでいる場合じゃない、選ぶ選択肢がない、というのが本音かな?。やりたいこと「障害」がある場合、「障害があるから」といいわけにするのではなくて「この障害をどう突破するか」と考える。場合によっては実力行使もいとわない。「兵は拙速を尊ぶ」というし。ただし条件があって、上記「現実の役割」とのバランスがとれること。無鉄砲な破壊はしない。


僕の考えはすべてそこで貫かれているのだけど、それをわかってくれていた人ってどれだけいたのだろう。

これよんで「ああ、さとしくんのなぞの行動の理由は」と感じる人が実は多かったりするのかも。