五体満足の基準

私はストイックな生き方をするといわれる。「もっと肩の力をぬけばいいのに」ともいわれる。理想主義者といわれることは私にとって「恥」だと考えていた。現実を知らない「夢想家」だといわれることは屈辱でしかなかった。美しい夢のためだけに現実をみない人生をいきるのはばかばかしいことだと考えていた。



私の活動・思想の多くのベースになった理想を述べるとすると「五体満足の人と同等の身体的・社会的・心理的能力を可能な限り、『障害者』とカテゴライズされる人たちも得られるようにすること」、つまり「弱者」「かわいそうな人」とされる「障害者」をこの世からなくすことであった。「理想」があるとすればそれだけだ。あとは可能な限り一人一人の力でできる実践的具体的な話をしてきたつもりだった。



けれども実際には私は「理想主義者」と理解されていたことのほうが多かったようだ。「障害者」「五体満足」のものの見方に「ゆがみがある」ともいわれた。それを知ったとき実は大変なショックをうけた。



一方では「私の活動や考えていることは実際の社会では必要のないことなのだろうか、無駄な仕事をしているのだろうか」と思った。もう一方で「いや、私の考えが『ハイレベル』という考え方になってしまっては「弱者」「かわいそうな人」のままの人間は増えてしまう。そういう人が増えてしまえば社会全体が弱くなって崩壊する。その結果「弱者」「かわいそうな人」はますます悲惨なことになる。だめだ。」という相克になやんだ。ある程度いろいろな多様性をもった「強者」とされる人間が多くないと本当の意味での「弱者」「かわいそうな人」を助けることはできない。その事例は古代エジプトの歴史等から学ぶことができる。「弱者」「かわいそうな人」を減らしたいというのはそこからきている。



なぜ「理想主義」といわれるのか。その原因をさぐってみた。



「五体満足」が問題だった。私がめざしていた「五体満足の人間」。



実は私自身は本当の意味での「五体満足」を知らない。そのため私が語る「五体満足」の人間は障害者からみた「理想の五体満足の人間」ということになる。「五体満足の人」が知る「五体満足」とは違う。それを「現実」と解釈して戦略をたてた。そこが「ゆがみの原因」だった。



ではその五体満足の基準はどこからきたのか。私にとって5つの明確な基準がある。



1、いかなる医学的・工学的人体改造を必要としないで2、以下の条件をすべてみたせること
2、自衛隊、軍隊の身体検査の合格基準をみたすこと
3、障害者に係る欠格条項に一切ひっかからないこと
4、学校の受験時に障害者の特別な申請を必要としないこと
5、マスゲームに支障がでないこと



どうだろう。実は私はこれを「一人前の人間」として認められる「最低ライン」だと考えていた。


上記をみたすことができれば学校選択の自由もある。職業選択の自由もある。たとえ男子皆兵制の国だったとしても問題はおきない。(徴兵のがれはしたくないしいわれたくないです。)たぶん地球上にあるどの社会の制約も「障害」がなくクリアできるのではないか?そう考えていた。友人たちにいわせると実は違うらしい。


上記をクリアできる人間のほうが「マイノリティ」ではないか?ともいう。


学校教育の制度からみても、五体満足の人の行動パターンをみても上記が「理想」だといわれても正直納得がいかない。



実際のところ、5つの五体満足の基準、これの現実はどうなのだろう。知りたいところではある。