祖母(父方)の人生

12月30日に92歳で永眠した私の祖母。「ひとつの時代が終わった」という感じがある。


年末年始は葬儀ができなかったので5日通夜、6日葬儀だった。


いただいた戒名をみてびっくりした。秀吉妻「ねね」さんと同じ院号
生前「ねねさんみたいだ」なんていっていたときがあるが「まさか本当になるとは」という感じ。


1914年(大正3年)、8月13日、中国・廬山でうまれた。本HPのDNA解析、第一話の曾祖母の娘である。その2日後、パナマ運河が開通する。第一次世界大戦のあった年である。私はこの祖母の還暦のときの孫である。私の姪の誕生日は8月14日である。まるで時代をいれかえるかのごとく眠るように生涯を閉じた。


http://www.geocities.jp/stshi3edgid/anc1mother.htm


日中戦争をさけるため、日本に帰国した祖母は東京都内の女学校へ行き、その家庭教師として母(私の曾祖母)に紹介され、私の祖父と知り合う。14歳のときの初恋の人である。21歳のときかけおち、結婚。


戦乱の激動の時代を板橋区、神奈川県茅ヶ崎市で過ごす。戦後、私がすんでいる現住所へ戻る。


私がすんでいるこの場所で文具店を開業、現在の礎をきずく。はじめはノートとえんぴつの小売はじめ、やがて、万年筆などのオフィス用具もあつかうようになる。伊東家の経済活動の基盤である。偶然にも開店した日は起業に大吉の日であったといわれる。小さなものをはじめて店を大きくしていく、という経営方法は中国の華僑の人々が身一つで起業したときの方針に似ているので幼少時から中国と交易をしていた母の影響があるのかな?と思う。


子供たちが独立してからの祖母の活動は「貴婦人」という感じだった。とにかく品格があり、洋風のドレスや和装が似合う人だった。外国旅行、社交ダンス、謡、銀座の歌舞伎座での観劇、とにかく教養が深く多趣味だった。


戦後、GHQを相手に英語力で交渉していたが夫婦旅行先のフランスでフランス語を知らないばかりに敗退したのをきっかけにフランス語学習にめざめ、その後、ドイツ語も学習する。当時最高齢で語学への挑戦を紹介したいとNHKからテレビ出演の依頼がきて、1974年3月22日、「こんにちは奥さん」へ出演する。


社会的な業績というものも重要である。祖母にとって社会的活動で重要なことは専業主婦に対する健康診断を実施したことであろう。当時、専業主婦の健康診断というシステムはなく、がんなどの悪性の病気で手遅れになり、命をおとす主婦が絶えなかった。会社へ働きにいくサラリーマンだけでなく、主婦にも健康診断を、と運動をはじめ、実現させた。多くの主婦が救われただけでなく本人も救われた。本人のがんもこのシステムで早期発見されたのだ。


そんなこれらを歴史の表にして写真と編集、葬式会場に展示していたら、そのころのことを覚えている人が参列されていて、活動家として「専業主婦への健康診断システムの紹介」をあちこちに回ってしていた姿をはなしてくれた。もう数十年も前のことなのに覚えてくれている方もいるのだ、と感動した。


おしむらくはとNママさんがいってくれたのは「本人の手で自伝」を書くことがかなわなかったこと。


私がまとめたダイジェストはあくまで私の視点だから。


自伝としてまとめきる時間のチャンスがないまま、祖父の死後、老人性の痴呆になってしまったからだ。もったいなかったかな?と思う。


ともあれ、最後の最後まで決めて有終の美で終わらせるのも子孫の役目。それができてよかった、とは思う。