聴覚障害者の海外渡航(言葉編 その1)

エジプトにきて以来少々引きこもりぎみだった。
移動が億劫になっている。
きたばかりゆえの疲れも確かにあるのだが、ほかも理由がある。


聴覚障害の不便さを感じてきている。


…とはいえ、まあなんとかするさ。


と、いうわけで自分は経験を自分のみにとどめておくのを好まないたちなのでここにOUTPUTする。
参考になればもってけ、ドロボー方式(でたー!)ってやつさ。


これは【言葉編】である。


まず、「その人が耳が聞こえないのだ」というところに思い当たるのはすべての条件が合致しなかったときのデフォルトになる。
プログラム言語の「switch〜case文のdefault」ってやつだ。
一番最後に判断されるのだ。
それだけ人間が「聞こえない、会話ができない」なんてありえないと世界的に思われている。


出発前に免許事前更新&国際免許申請してきたが、そのとき初めて聴覚障害者の免許制限が解禁されたことを知った。


聴覚障害者の運転免許取得(HPは埼玉県警)
聴覚障害者の運転免許取得】
http://www.police.pref.saitama.lg.jp/kenkei/menkyo/osirase/tyoukakusyougai/tyoukakusyougai.html


そして講習でも「聴覚障害者マーク」の車には注意するように呼びかけていた。
たしかに僕は車は長距離運転のときに使うのだが、クラッション鳴らして無理な追い越し仕掛けたり、全体の調和を考えてもさける場所がないのに「どけ!」とばかりにあおる車に出会うことがある。この世で一番「ぶっ殺してやりたい」と腹がたつのが「車間距離を詰めすぎる」車だ。人間は人によって思考回路も反応速度も違うから、つめている車と同じメカニズムで状況に適切に反応できるとは限らないのだ。だから前の車の反応によっては自分が追突事故の加害者になる可能性が大なのだ。「人殺し」と同じだと思っている。

加害者のほうが悪いかもしれないが、被害者になって死んだり後遺障害が残るのはまっぴらごめんだ。
そういう車が自分の後ろについたらかかわらないように順番をゆずるけれどね。
ま、車は全体のリズム感に乗るのが「安全運転の基本」です。
前後の車とスピードと同じ速さで走れば、ぶつかることはまずない。
前後の車が同じスピードで走りたい気があることが大前提であるが。


そういう話を関西圏の知人に話したら、「えっ、そういうふうに感じる人がいたなんて。車間距離【もったいない】と思ってつめていた。」とのこと。無駄な車間距離はたしかに交通障害の元だけど、必要な車間距離もあるんだよ。


聴覚障害者はすべて「目」で情報をカバーしないといけないから反応速度が遅れる可能性が大きい。
しかしどれだけの人がそこに気がついてくれるか…。
聴覚障害者巻き込んだ場合の罰則はきびしいらしい。


それだけ「聴覚障害」はみえない障害なのだ。
話がそれた。


成田を出発するときからそうであるが、会話がわからない判断された場合。
通常まず浮かぶのは「その言葉ができない」ということだ。

●成田空港で
成田空港のチェックイン時、何かを言われた。
聞こえなかったので「もう一度お願いします。」といったら英語で切り返された!


「この人日本人だよ!」父がつっこみ。
笑いとばして冗談で終わらせたが…。


外見のこともある。
が、日本語の会話には障害はない。私の日本語の発音は上海系のジャパニーズらしい。
聞けない日本語の発音ではないが、違うらしい。
たしかに「中国人かフィリピン人」に間違われたあと、日本人?となる。
アラビア語はエジプトなまりだし…。
英語はどうなんじゃろう。(さすがに日本人だろう。日本の英語塾いっていたし。)


その時点で国籍、民族不詳…。

バーレーン空港で
「トランジットの時間にマナーマの町にでたいのだが」と話したが、会話のキャッチボールがスムーズにいかない。
「エクテブ ヘナー ミンファドリカ(書いてください)」
「英語がわかるか?」と聞かれて、
「アナ アアリフ インギリジー、バッス、アナ サマート イール(英語はわかるが、私は耳が聞こえない)」と答えて補聴器をみせたら、係官がアラビア語で担当官に何か伝える。


「OK」ということでトランジットホテルを紹介されて、食事、寝るのジェスチャー


筆談なし。目的は果たしたが、なんか…釈然としない…。

とにかく「聞こえていない」=「聴覚障害」にむすびつくのは海外にいくほど難しい…。
海外にでる聴覚障害者が少ないせいもあるのだろう。


しかしいろいろな意味で非常にしんどい…。


場合によってはこれが非常ないらだちを生み出す。


たしかに英語、アラビア語はネイティブクラスに話せるわけではない。
しかしできないわけではない。
特に筆談であればある程度いける。


音声言語ができないと「できない」とされる。
日本でできていたレベルの音声言語の発達は期待できない。
にもかかわらずである。
かゆいところに手が届かないもどかしさが常に付きまとう。

(つづく)