聴覚障害者の海外渡航(言葉編 その2)


音声による言語の欠点はそこに「慣れ」の問題が潜むということだ。
これは学校にいったからといって解決する問題ではない。
現場実践の場数がものをいう。


たとえば「ベトナム」は「vetnam」とかく。
ベトナム」は「vetnam」であることは音声言語の上では無意味である。
「ばつなん」と聞こえた音が「ベトナム」であるとわかることのほうが音声言語では重要なのだ。
「ばつなん」が「ベトナム」であるとわかるために次に重要なものは「状況:シチュエーション」である。
この場合は「場面」と「話された前後の文脈」である。


特に私のような感音性の難聴の場合は「聞こえない原因」に「音がゆがむ」という原因がある。
大きな声で話されるよりも、言語の差異を明確に、文章で話してくれたほうが推測ができるためわかりやすいのだ。


極端な話、話の舞台が東南アジア、そして「2拍のリズムで最初は【V】」で「ベトナム」と判断することがある。
わずかな手がかりで「9割推測」で文脈つなげたり。


複数人の雑談では5W1Hを間違えて理解してしまうこともたまにある。
「誰かが何をした」はとれるが、「地方」の話なのに「東京」と思ったり。
だから雑談系でも人間関係上重要な話は「5W1H」の要約お願いということもある。


「聞こえないが故のコミュニケーションの不自由さ」が人格・人間性と理解されてしまうことは一番こわい…。
※なんか人の生死にかかわる話をしているのに平然として同情もしない?みたいな→単純にそういう状況と理解していない。
※共感能力はない、人間関係にドライ→話をきくのに必死で、エネルギーアウト。


「まあ、しゃーねー」ということで35年近くも生きりゃあきらめもついたがな。


これはネイティブ言語である「日本語」でも同じだ。
聴覚障害者には文章で話したほうがいい。
一番難しいのが聞いたことがない単語を聞き取ることだからだ。
聞き取ることに必死で今度は「意味」がわからない。
そのために会話のリズムを切断してしまう。


文章でいうと「ほにゃらら」の意味がわかる。
意味がわかれば会話の流れを切断しないですむ。
「ほにゃらら」は「ほにゃらら」のままメモする。
「ほにゃらら」を正しく知人が書いてくれたら本当にラッキーである。


今はインターネットも発達しているので帰宅後「ほにゃらら」を検索する。
で、「ほにゃらら」の書き文字と発音がわかる。こんな調子である。


最終的にはいろいろな人の「ベトナム」を聞くことで「vetnam」は「ベトナム」とわかるようになる。


つまり言葉の「意味」と「発音」と「書き方」がすべて「別管理」なのだ。
トレーニングも別にトレーニングする。
一番重要なのは「意味」だ。
会話のようなスピードの速いものは「意味」をとることを最優先する。
でないと脳の検索処理がどうしても間に合わない。


「ばつなん」といわれて「ベトナム」とわかることが最優先。
相手に話すときも「ばつなん」と発音するとたいてい通じる。
人によっては「べつねっ」といったと聞こえる。
そしたら「べつねっ」と返す。


まれにずれすぎて訂正が入ることがある。
「べとなむ」と発音するよりは確実に通じる。
なるべく相手の発音にあわせて話す。
書くときは「ばつなん」は「vetnam」と書くことを覚える。


これがまず基礎だ。


一番いいのは「文章」で「ゆっくり」話してほしい。


しかし現実はそうはいかない。


まず非常に「早口」である。
しかも「高音ヘルツ&摩擦音」でしゃべる。
感音性は高音領域は聞き取れない。


音域的には英語よりもアラビア語のほうがかなりましなんだが、アラビア語は英語ほど使いこなせない。
しかも英語にも「なまり」がある。アラビア語にも方言がある。
日本語も同じ。日本語を学んだからといって会話言語の江戸弁や関西弁が聞き取れるか!というお話。


「わからないからゆっくり話してほしい」という。
そうすると早口のまま「単語」で切り替えしてくる。


「わからないので書いてほしい」という。
そうするとたいていの人はかかずにジェスチャーで応じるか、独断で処理する。


「発音が難しいから」メモをしてメモを見せる場合がある。
けれどもメモに目を通されないことのほうが多い。


「書き言葉」という日本で開発した聴覚障害者のサバイバルが通用しないという現実がここにある。


もちろん相手側に理由がある。
まずジェスチャーのほうが「簡単な意図」を把握するには早い。
会話のリズム感という観点でいうと音声言語の代替として使えるのはやはりジェスチャーだ。
それと書き言葉があまりにも苦手な人が多い。
サービス業につく人には「文盲」の人が多いのだ。
完全な文盲ではないが、生活に必要な最低限の書き文字しか覚えていない人が多い。
数字とか自分の名前のサインとか…。
わからなければ読める人にきけばいい、みたいな…。


一応義務教育があるが、家業をつぐから必要ないと思ったか、オチこぼれたか。
うちの近所の八百屋の子供たち、学校いっているんだろうか?と思うことがある。
だから本当に「読めない」んだろう。
たしかに数字の計算と人として会話ができれば「仕事」はできる。
正業さえきちんといとなんでいれば日常の生活はできる。生きていける。
高度な思考回路とコミュニケーション能力を最低ライン期待される日本とは大違いだ。


エジプトのみならずそういう世界のほうが圧倒的に多い。
文盲の人が多い中で聴覚障害者の書き言葉ってどれほど力発揮するのだろう…。


「書き言葉」を音声言語の変わりに使いこなす日本の聴覚障害者のあり方というのは世界的には実は非常に特殊なのだ。


日本と比べてエジプト人ジェスチャーは豊富、かつジェスチャーに対する「恥」の感覚がないのでジェスチャーがかなり使える。
日本人はジェスチャーを「みっともない」とかんがえる。その感覚が聴覚障害者の「手話禁止」の教育環境の整備を後押しした。
日本文化が「見えるものの形」を非常に重んじるがゆえであろう。


しかし言葉はなんのためにあるのか。
「意図のディテールをつめる」ためだろう。
繊細に的確に「意図」をつめるためにはそれだけ多くの言葉が必要なのだ。


たとえば「美しさ」を表現する言葉…。
「あでやかな」「つややかな」「妖艶な」「華やかな」「きらびやかな」…。
同じようなものに見えて伝えるイメージがまったく違う。
すべてをひっくるめて「美しい」で伝えると「即」伝わるが、状態を伝えているだけで、そこに秘められた情報のほとんどは伝わらない。


ジェスチャーではそれができない。


「私は空港から街へ出たい」という交渉はジェスチャーでできるだろう。
というか、状況でわかる。
けれども「私は【労力が少しかかっても一番安い方法で】空港から町へ出たい」という交渉はジェスチャーではできない。
そうすると一番単純なのはタクシーで街へでることだ。一番高くつく。
街をでる方法を教えても躊躇していたのでは「この人何がしたいの?」になる。


エジプトのような商売っ気のすごいとこだと、公共のバスに乗りたかったのに言葉の問題でタクシーにつれていかれる場合がある。
そういう気苦労もある。


またある程度の土地勘がある場合はタクシー代も適切なものを払えるが、わからない場合がある。
そういうとき「いくら?」と聞いて納得がいけば乗る、いかないなら乗らない、という方針をとるが、あるとき車の中で値段を変えてきたことがあった。


相手は運転中、自分は書くことしかできない。
音声言葉は車のエンジン音で消えてしまう。
つまり走行中の車内での値段交渉自体無理。


荷物が人質になっているので安全のために言い値を払うしかない…。
ヘリオポリス〜ヘルワンまで60LE(1200円)。
マーディ〜ヘルワンはそれより大幅に下回る。
言い値は40LEだから乗ったが、乗った後に100LEに。
100LEはカイロ均衡の1日チャーター料金の相場だから
あきらかなぼったくり。


100キロぐらい飛ばしてその車で値段交渉始めるから、ものすごくこわかった。
「これは運転に集中させないと絶対に事故る」と思った。
その恐怖でかたまった筋肉が2日ほぐれなかった。


まあ、やられました…、ということよ。


いろいろな諸事情があったからいいけど、信頼できるタクシーを早くつくって迎えにきてもらうのが賢いかもと思ったさ。


とにかく音声会話に不自由なのは不利。


そういうことで本当に生きるための知恵比べの毎日さ。