「食うための仕事」=正業って何?

インターネットの悪いところ…。
うーん、関心のある情報が多すぎて長時間のネットサーフィンをしてしまうことか…。
社会全体でおきていることに「無関心になる」ことに自分が許せないからどうしてもピックアップして深めて、自分の考えを…そしてどうやって行動に結びつけるか…みたいな。


そういう風に考えるところにも独特の「思考装置」ってやつがあるわけで。
基本的に「自分の仕事」「食うための仕事」「社会への仕事」「家族・友人への仕事」。
その4つのバランスをたもつ、っているのが伊東聰的ルールなんだ。


日本人は「食うための仕事」に忙しいと「いいわけ」が正当化されがちな社会に暮らしているわけだけど、それは絶対に許されないと思っている。いかに「食うための仕事」にストレスをためてそれに耐えているかということに美学を感じている人も多いのだけど、それも「ありえない。」ただしそういう考え方は人にいうのではなくて、あくまで私の内面の「ジハード(聖戦)」。それ大事。


「食うための仕事」に忙しいからほかの人のことなど知ったこったというのは結局は「自分勝手ないいわけ」にすぎない。
厳にその積み重ねが今の日本の大問題をつくってきたと思っているから。
大体自分が差し引かれた税金がどのような割合でつかわれているか。
そのことをきちんと意識している人いる?
意識して「監視」していれば今の日本の大半の問題はおきなかったと思うし、もっと解決していた問題も多かったと思う。


つまり「他人事にしない」ということが重要なのさ。
現実問題改善するには一世代全滅するぐらいの時間がかかると思うけれどね。


ただ、この4つのバランスをたもつ、というのは日本社会では現実問題非常に難しいのだ。


なぜならば現実には「勤労精神」に美学をもち、Wワークを禁じる、そして「男は仕事、女は家、一人前に働けない老人、障害者は社会の外へ分離」という方針を徹底して貫いたシステムをつくりあげた日本社会でめしを食っている。ということは4つのバランスをとりつつも、「あなたたちの仕事はきちんと取り組んで貢献しています」ということを日本社会のルールに従ってみせないといけない。

それが「形を重んじる日本社会のルール」のひとつだ。


私の考えで常に批判されやすい「正業をもて!」がある。
つまり「働くのがえらいという考え方はどういうことだ!」というわけだ。
残念ながら私は「勤労精神」に美学をもつ日本社会、という現実をはっきり書いただけだ。


「食うための仕事に忙しいを美学にもつ」社会をあなたたちは相手に要求をしているのだ、ということ。
「食うための仕事に忙しい」人のいう言葉と「食うための仕事がない」人の言葉では同じことをいっていても相手の受け取り方がまったく違う。「食うための仕事がない」人の言葉は大半が黙殺されてしまう。黙殺どころかいじめの対象になってしまう。だから、「小さくてもいいから正業をもて。それからいいたいことをいおう。」といってきた。


そういうことを言ってきたら「正業の意味がわからない」という質問もあったりして「うーむ」。
「なぜ社会改革に人生をかけたいのに正業が必要なんだ?」という質問がでて、これに数年前は答えられなかった。
「当たり前」とおもっていることを聞かれると「言語化されていないから」答えられないんだよね。
逆に「当たり前のことがなぜわからない?」と思ってしまって。
それが結果として上記反発につながってしまったわけで。


正業、つまり「基礎となるべき生活のための仕事だね。」


「今日の家賃をどうやって払おう」とか
「今日のめしをどうやって食おう」とか
そのために何をだしてめしを食おうかとか。
しかもきちんと社会的にも承認され、安定してそのサイクルが維持できる、というかな。
その反対がやくざな仕事というか。
かなり悪人的発言をするとやくざな仕事でも「生きるため」という究極の意味では間違っていないのだが、社会にものをいう、ということを考えると社会の構成員が承認する仕事って言うのは大事だと思うよな。やくざな仕事の人でも「やくざな仕事で終わらせてたまるか!」って必死に労働環境などしくみ変えたりして、社会的認知をあげる努力をしている人もいる。でも一生涯の仕事だよな。やくざな仕事には逆にイメージを落とすライバルも出現するし…。


言葉が通じやすい正業って何か、という話になると「その社会構成員がやっている仕事」ってことかな?
やはり農業やったら農業関係者の理屈がある。
商業地域だったら商業地域の理屈がある。
建設・土木、情報行などのゼネコン系の理屈がわかるのがいい場合もある。
官公庁との関係性の強い業種があつまる場合がある。
理由があって「暗黙の了解がある」からそこをわかった上で「改革しようとしている?」ということだろう。


なんだっていいじゃん、というのが究極的にはあるのだけど、大体「社会のしくみを変えたい」人のほとんどは「すべての人間を敵に回しても自分の道を貫く」というパワーをもっていない。


それと実はある特定の属性をもっている人が行動を起こして失敗をすると、その人の責任のみならず「同じ属性をもつすべての人が排斥される」という特徴がある。つまりその人個人の問題ですまなくなるのだ。つまり「村八分」だ。


最近は世界的にも「属性ではなく『人を見よう』」みたいな動きがあるが、まだまだ少数派だ。
宗教、民族によるいろいろな属性による「分離教育」は盛んだし、住民基本台帳システムのコードにそれが記載されるケースが多い。

属性による大虐殺は数々ある。

ルワンダ紛争
ルワンダ紛争
出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%80%E7%B4%9B%E4%BA%89


■エル・コシェ村の虐殺
Kosheh Martyrs
From Wikipedia, the free encyclopedia
http://en.wikipedia.org/wiki/Kosheh_Martyrs

2000年1月2日、カイロ南部450キロにあるソハーグ近郊のエル・コシェ村で20人のコプト教徒と1名のムスリムが虐殺された事件。

ルワンダのフツによるツチの大量虐殺のときにフツの女子学生たちがツチの女子学生たちをかばって一緒に虐殺されたという美談のような話もあるが、その話が美談になるほど属性で排除したがる人間の悲しい弱さがあるということだ。


だが、大多数は個々の差異はあれど共存して生きている。
つまり「共存」できるということだ。
だから「どうやって共存していけるか」ということが重要なのだ。
それができるのは「正業をともにする仲間である」ということにほかならないだろう。

「今日の家賃をどうやって払おう」とか
「今日のめしをどうやって食おう」とか
そのために何をだしてめしを食おうかとか。

共感ができれば一緒に解決しようとするだろう。
だが、共感されなければ動いてはくれない。
逆にめんどくさがられるだけである。


共感を得る、が大事だけどその共感を得るが非常に難しい。
共感を得られるようにするためにはその相手を理解しないといけないから。
どうしても感覚がずれる場合は価値観が違う、というわけで袂を分かつしかないのだけどね。
でもそういかないからみんな「居場所」作るためにいろいろなことをするわけだけど…
「要求がでてくる」レベルになるのは「このままだったら破滅する」という「限界ぎりぎり最後の状況」だろう…。