「自分の性別は何か」それが出発点だ。

性別のとらえ方はいくつかある。


学校の教科書で一般的(ではまだないかもしれないが)に教えられている性別は4つだろう。
だから先のとらえ方は「何か違うよ?」と思うかもしれない。



性的指向がない!」という突っ込みがはいるだろう。
しかし意味があって「性的指向」ははずした。


○一般的な性別概念図
三橋順子先生の図(本人のサイト参照)
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200902250000/
http://plaza.rakuten.co.jp/junko23/diary/200902250000/


以下抜粋。

■多様な性の構造
1.身体の性 セックス
2.心のの性(性自認ジェンダーアイデンティティ
3.社会的性(性役割・性別表現) ジェンダーロール・ジェンダーパターン
4.対象の性(性的指向) セクシュアル・オリエンテーション

三橋順子「多様な『性』を考える」「みんなの幸せをもとめて」東京都教育委員会

私の原案のモデルはあくまで「心の性、ジェンダーアイデンティティの形成」、「私(自分)単体での性別のあり方」を階層的に把握したもので、同性愛問題等で問題となる対人間関係における性的指向の問題にはふれていない。性的指向で「自分の性別がどうなっているか」が決まることはないからだ。「私(自分)単体での性別のあり方」があってそれから性的指向の問題が成立する。次元が違うのだ。一次的な性別として「自分の性別」があって二次的に「性的指向」があると思っている。しかしたびたび「性的指向」が「自分の性別」を決定するかのような因と果が逆になっている誤解が起こる。


たとえば「レズビアンが重症化したのがFTMであり、最終的に男になる」みたいな。
これは「私は何者」と「私の関係性」を同じ次元でとらえたために起こる誤解である。


そのため、「FTMとレズビアン」の混同が起きていると私は考えている。しかも今FTM=レズビアンという考え方は性別越境者社会で主流?になっているらしく、それを「社会参加」という視点で非常に危惧している。なぜなら性的指向だけで人間の社会性は成立しないからだ。


「その人が誰をパートナーとしているか」ではなく、「その人自身が何者か」ということのほうが対社会では重要だ。たとえば「その人がレズビアンである」が成立するためにはその人の「1.肉体の性」「2.性自認の性」「3.属性(帰属)の性」が「4.オーラ(仮)の性女性」であることは必須だろう。そこには「5.社会性」は関係ない。もっとも「5.社会性」が「男性」であることで本人が「2.性自認の性」「3.属性(帰属)の性」が「4.オーラ(仮)の性女性」と錯覚する可能性は否定できないし、その区分を超えて関係性ができる可能性があるが、その場合そのパートナーが真性の「レズビアン」でなかったことになる。


つまりこの場合は「性的指向」から「自分の性のありかた」を発見したといえるかもしれない。


まあ「個 対 個」の問題であれば単に「出会い」の問題だと思うから、上記の考えはあまり意味をもたない、というのが女性コミュニティの言い分かもしれない。「凶器さえもちこまなければ」。


だが「性自認性的指向の混同」は「社会参加」という視点では非常に危惧する。というのはまずは本人が「自分が社会でどう生きたらいいか」わからなくなることで「自分自身の問題」に視点が集中し、対社会のために何かをOUTPUTすることをしなくなるからである。具体的には「私はうけいれられているだろうか」「私は仲間はずれにされないだろうか」と「私は〜」で発する悩みで頭がいっぱいになる。結果「私」を承認させるための行動でいっぱいになる。「私」をとりまく人間のことなどひとつも考えていない。


OUTPUTできないということは「自力でめしを食うことができない」ということになる。つまり結果として人間関係をさけるために引きこもったり、最悪の場合自ら命を絶ちかねない。


また第三者からみてもその人が「なにものか」わからなくなるため、コミュニケーションがとりにくくなる。結果関係性が成立せず人間関係の悪化につながる。人間関係なき社会参加はありえない。なのでこの場合も本人がいきなり「失職」したりする。


ちょっと考えただけでもわかるだろう。「他人にのぞまぬ自分を決められる」ことへの苦痛を。


その苦痛で悲鳴をあげていたのに「性的指向」で性別を決めるのはまさに「他人にのぞまぬ自分を決められる」ことの苦痛に身を投じることのほかならないではないか?しかもわがままなことに他人が決めた「性別」にNOをいってさらに決めてもらいたがる。


つまり「私」の望む性別を他人に「発見してもらう」ことを望んでいるのだ。
「発見」されなければアクセサリーのようにパートナーを変える。
これほどの「依存」があるだろうか。
いたずらに他人の人生や生活を振り回すだけである。
周囲を消耗させこそすれ、エネルギーを与えることはない。


まず「自分の性別は何か」それが出発点だ。


「草食男子」という言葉ができるほど寛大になったとはいえ、ただでさえ女性的男性に対して男性社会の目は厳しい。女性的男性が男性社会にでるには実は普通の男性に比べていろいろなスキルの求められるレベルが急激にUPする。だとえば「男性大学」があったとして入学条件は偏差値50だったとしよう。女性的男性は70を求められる。


これはどういうことを意味するかというと「社会において失敗ができない」ということだ。


実際にきわめてめずらしいであろう私の体験をOUTするとこういうことだ。

1.女性と勘違いされていると「気持ち悪いぐらい」に男性が優しい。
  のりあわせた電車でのできごと。
  女性が一人前の社会人になりにくい原因だと思った。つまり男性上司が女性をスポイルしている。
  ※【思ったこと】でも女性に嫌われたくない&嫌われると
  職務に支障をきたす、という思いもあるからなあ…。
  その心理的負担がいやでホモソーシャルな職場つくる人もいるよ、きっと。

2.スキンヘッド&坊主頭 VS 長髪男性
スキンヘッド&坊主頭 : 長髪男性 =10:2の割合であるのだけど、
残念ながらスキンヘッド&坊主頭のほうが「普通に溶け込める」という意味で社会参加がすごく「楽」。
逆説的にいうと長髪男性にどれほどの軋轢があるかということだ。
「普通」に埋没している男性に比べて強いプレッシャーをかけてくることがある。
これに対向して長じる(30歳以上)と同期が「震えだす」ほどいらん「すごみ」が身につく(笑)。

  ※【思ったこと】30代前後になると長髪男性でいられるとはどれほどの「できる人?」というイメージがあるらしい。
  その結果「実力以上のものをさらに求められる」からもっと修羅場が殺到、さらに凄みがます。
  上司が甘えて仕事をせず、部下がおびえて引いてしまう=>結果、仕事が一人に集中攻撃!
  作戦本部で「のほほん」と仕事なんて「ありえず」、毎日常に戦場の前線/臨戦状態!火消し稼業に泥だらけ。
  建築・土木業界で東大卒に「楽な」案件がまわるのと同じ理屈だな…。
  で、ダーティな仕事は社会のゴミども(とラベリングしたやつ>長髪男性含むに)に「安い値段」でやらせる。
  一般社会にいる90年代のMTFさんにキャリア女性の鏡といえるほど「できる人」が多いのはそのせいではないか?
  欠点としては「泣き言が一切いえない/いわせてもらえない」から「健康」を害することもある。
  だったらキャリア女性育てるのに「長髪男性」と同じ扱いすればいいのでは?というわけにはいかんのか…。
  …いやだったら「永久就職」とかいってすぐやめるリスクも高いからなあ…。
  ヘテロ男子のメンタルヘルスに女性は必要だし…。(と一般社会の高齢ダンシは思っています…)

「それでも私は長髪男性である自分でいられることが幸せだ。」伊東聰。

女性的な言動を男がすればすぐに「女のくさったの」という批判を浴びる。
ましてや「実は女性属性である」ことに気づかないまま男性として働くFTMが悪い意味での女性的な言動をすればどんな事態になるか火をみるよりあきらかだ。「女性だった」といういいわけがきかない分本人にとっても厳しいだろう。


男性属性であるFTMが「女性」の枠で就職しても悲惨である。
この場合のやっかいなのは数十年かけて「悲惨になっていく」ことである。


一般に異性のトランスジェンダー同士は仲がよくないといわれている。特にMTFトランスジェンダーをFTMトランスジェンダーを対等に話ができる人間とは思っていない。その理由は男性属性と女性属性の格差にあるだろう。


男性属性の中で底辺におかれて、徹底的に社会にいじぬかれ、またそれをサバイバルするための教育をうけたMTFトランスジェンダーと女性属性で甘やかされ、保護されはするが地獄をサバイバルするスキルに欠けるFTMでは天と地ほどに待遇が違う。


男性属性であるFTMが「女性」の枠から「男性」に性別越境した場合、深閨のおぼっちゃまがいきなり世間の荒波にほうりだされる展開になる。


…まあ、もっとも今はそんな30歳以上の男子めずらしくないのですがね…悪い意味で…。


そりゃ「理想」はジェンダーフリーだろうなあ、「男/女」問わず、また性的マイノリティはいますよ、だろう。
だが現実はそう簡単ではない。
極論をいえば他人のことなど人はどうでもいいからだ。
だからこそ、「性別の自分の立ち居地を決めておけ、ただし苦しむのは自分だけでないからなるべく自分で間違うな」、そういうこと。