レベル1 「守・破・離」【型】を守る その6

伝統芸能スキルで「障害」を乗り越える

ハンデをかかえる人はどうすればそのハンデを克服することができるのか。
これは大変重要かつシビアな問題だと思います。


けれどもひとつだけ「これだけはやっておくとハンデを軽減できるよ」と思うものがあります。


伝統芸能スキルです。


たとえば「和歌」「短歌」「俳句」。
日本舞踊。歌舞伎。
雅楽、声楽などの「音曲」
工芸、彫金、漆器、陶芸、織物。
茶道、香道、武芸、書道、華道。
和裁、洋裁、手芸、園芸。


日本の伝統文化だけではありません。


バレエやピアノ、バイオリン、オペラ。
フィギアスケート等でもいいでしょう。


宗教的、精神的世界の技能/スキルの学習でもいいでしょう。


部活動の中でもブラスバンドだったり、古典的応援団であったり。


これらにはある共通点が2つあります。
「型が決まっていること」=「ルールがはっきりしていること」です。
そしてそのルールが社会のマジョリティに受容されやすいということです。
逆に型からはみ出すことに対しては厳しいです。


こういう世界のスキルは「空気読めない障害をもつ」人にとっては大変助かるものなのです。


実際コミュニケーションに不器用な母が今までやってこれたのは仕事は伝統芸能を扱うものだったからでしょう。「茶道」という一芸に対して徹底的に道をきわめたことがよかったのだと思います。


コミュニケーション面でハンデをかかえる人は「徹底的に道をきわめる」ということには長けていることがあります。


ただ、残念なことに人間に対することや日常の雑事というのは「型」だけではどうしようもないものがありますので周囲の理解者は必要です。


「守・破・離」という言葉があります。


教えを守る。自分なりの発展をし、最後には型を離れて独自の世界をつくる。
若い世代にとっては教えを守って型をつくることが大事なのです。


どこの世界でも型はあります。
たとえば障害者の人権活動にも性別越境者の「doing gender (三橋順子先生言)」に対しても。
まず守るべき型があってそこから個性が生まれてきます。


■型を重んじる日本文化
日本の文化は「己の分をわきまえる」「形、形式を重んじる」文化です。このことによって「異形のもの」には非常に厳しいです。容姿に障害を負った人が就職活動で困った話はよく聞きます。実際顔面にあざのある息子の就職のためにオペ代をためようとして過労死した父親、という悲しい話も聞いています。そのぐらい容姿に対する態度が非常にきついです。結果として「自分がどう受け入れられるか」を常に意識して自己評価をくださねばならず、そのほとんどはマイナス評価です。結果として二次的に対人恐怖症に陥る人もいます。容姿が重視されるのは女性より男ではないか、と思います。そのマイナスを克服するだけの力がないとやはり「社会から拒否される」という感覚を強く感じます。


この「型、形式を重んじる」が日本の宗教にははっきりでております。もちろん仏教、キリスト教イスラームなど世界宗教でも「形、形式を重んじる」があり、日常の所作それぞれにおいて訓練されます。日本の場合は私は「パリサイ主義」とよんでいますが、非常に「型、形式」に対して厳しい基準をもっております。


そのために寛容なはずのイスラームが日本にはいっても、イスラームの「型、形式」をがちがちに重んじて選民的、排他的になるというイスラーム本来のコンセプトとは逆の「矛盾した現象」というのがおきてしまっております。


日本でイスラームが根付かず、逆に敬遠されるのはイスラームの規定する細かいルールを「パリサイ主義」的に採用してしまった場合にとんでもなく「がちがち」な生活になるからでしょう。そのためかえって人間的生活をそこねるからでしょう。特に国家や文化がイスラームを受容してみあったシステムをつくっているのであれば別ですが、ダール・アル・ハルブに属する国家である日本で「パリサイ主義」に陥ったイスラームを受け入れることはほぼ不可能になります。

・ダール・アル・ハルブって?
ダール・アル・イスラーム=「イスラームの家」、イスラーム法で統治される国家。
ダール・アル・ハルブ=「戦争の家」、非イスラーム法で統治される「戦いの相手になるかもしれない/するべき?」国家。


スィヤル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%A4%E3%83%AB


実はイスラームに匹敵するぐらいの細かい規定があるのは「神道なのです。その規定というのは、平安時代中期に編纂された延喜式という格式(律令の施行細則)に定められています。


延喜式 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BB%B6%E5%96%9C%E5%BC%8F


そして延喜式等でさだめられたルールは礼法に引き継がれて、日本の伝統芸能の礼法の隅々にいきわたっているわけです。


かなり厳しいですよ。おじぎの仕方、揖(ゆう)というのだけど、それぞれの場面において角度がきまっております。歩き方から全部きまっております。


神道イスラームの考え方は非常に似ているところがありますが、ひとつだけ私をイスラーム研究にひきつけた大きな違いがあります。


イスラームの場合、教典が明文化されています。ロジカルな思考ツールもあります。
だから未経験の人でも「視点」が理解できるのでわかりやすいのです。


神道の場合は教典がありません。
神社本庁の指導は延喜式にのっとっております。
が、口伝であったり体面であったり。
コミュニケーション障害をもつ人にはハードルが高いです。


神社本庁 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%A4%BE%E6%9C%AC%E5%BA%81


けれども「型を重んじる」ために「型が残る」教典はよくないと判断されているのでしょうか、教派神道以外は教典は存在しないとされております。教典がない=無秩序ではない、というところが日本らしいところです。


逆に教典をもつイスラームを日本に導入した場合「なんとしても【明文化されている法】を守りぬけ」となってしまうのでしょうか、非常に日本的なイスラームになってしまうリスクをもっております。これはたぶんイスラーム本来のコンセプトからいうと大いにはずれていると思うのですが、仏教、キリスト教の伝来のときも「日本的にカスタマイズ」が起きてしまっているので「うーん(悩)」というところかな…、と。


日本教」というものがあるかもと論文を書いた外国の方がおりましたが、「日本教」=神道神道八百万の神の概念がそうさせてしまう可能性が高いです。しかし神道が「八百万」の多神教かというとそうではない…。これは後日にゆずりましょう。


■「型を学ぶ」ということ
「型を守る」=「なんとしても【明文化されている法】を守りぬけ」という考え方が障害者や性別少数者、外国人を「異形・異端のもの」として社会から排除し、数十年にわたる救われない状況をつくりだしたのは日本の歴史の負の部分と思います。


「明文化されている法があるからあなたたちを助けられない。」「生まれながらのアウトサイダー」。


イスラームでは「生まれながらのアウトサイダー」などありません。アウトサイダーになるのは「その人がその人生を選ぶ場合」だけです。「選びたくなくてもアウトサイダーにされてしまう」のが日本社会のあり方です。


アウトサイダーからかたぎになるのはどうしたらいいのか」。


ここで先の伝統芸能の話がでてきます。逆にいうと「型を重んじる」が一番受容されやすい社会なのです。だから形にハンデをもつ人、型がわからない人は型がはっきりしている伝統芸能の世界からはいると「型がわかる」のです。「型を重んじる」人を生理的に嫌悪する人というのはめったにいないので一番苦手な人間関係のトラブルをさけることもできるのです。


伝統芸能で学ぶ型というのは実は日常生活に非常に密接にかかわっております。あいさつの仕方、電話のかけ方、そして上司部下/おえらいさんとの関係性/距離感のとり方まで、すべてその型からはいります。型を学ぶことで人間関係の失敗で「傷つく」ことを減らすことができます。


「苦手な人ほど『礼をつくす』」という言葉があります。
人は礼をつくされることに悪い気はしないものです。
礼をつくせる/型を守れる人は信頼されます。


もちろんこれだけではNGだという話は次の機会にします。


「型がつくれない」障害者の方はどうする?
ごもっともです。
これは「その人の能力の限り『型』をつくる」というのが答えになります。


たとえば「お里がしれる」豊臣秀吉。それから「容姿&五感にハンデのある」伊達政宗
彼らは徹底して「型を学び、極めよう」としました。
容姿にハンデがあるからこそ、「型を守る美」に対して徹底した思い入れがあるのかもしれません。
そして経験的にそれが自分の人生の成功に結びつくことも彼らは知っております。
ハンデがあって異形であるにかかわらず「美学」にうるさくナルシストの方は結構多い気がします。
逆にそうでないと「人間」として対等にいきられないのかもしれません。


それから徳川家重、有名な天障院篤姫の夫、徳川家定
脳性まひによる麻痺があったと伝えられておりますが、公式の場での型を重んじました。


私の知る人では高次脳機能障害による記憶障害を持ちながら、「型を学びにきた方」がおります。


■世の中は型であふれている
イスラームで「アラーは人を美しい形につくった」と書いております。
「目の機能」「鼻の機能」「手足の機能」。


いわゆる創造科学(えせ科学?)の理論にインテリジェント・デザイン(ID理論)という言葉があります。
これは「知性ある設計者によってこの世のシステムが設計された」と考える考え方で、根拠としてたとえば「目の機能を設計する」のに最初から「目の機能」として設計しないと完成できない、はじめから「形」があったのではないのか?という考え方です。


伝統技能だけでなく、世の中には型があふれています。
どれだけややこしく新しい考え方とみえてもその中には「型」があります。
そしてその「型」の種類は多くはなく、また多くの人の共通言語として使えます。


たとえば最新のIT技術に関しても業務知識による設計には型があります。


型があってはじめて新機能を追加できます。


「空気よめない」などのコミュニケーションに悩む方、「型」について考えてみてはいかがでしょうか。