「説明責任」主義の要再考


過去の日記で「説明責任」について書いた。
「説明責任」の検索結果 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


http://d.hatena.ne.jp/stshi3edmsr/searchdiary?word=%C0%E2%CC%C0%C0%D5%C7%A4&.submit=%B8%A1%BA%F7&type=detail


だが、昨日今日の友人とのやり取りで
「要再考」事項であることが判明。


課題は3つ。

ひとつはその道を通るとイレギュラーな解決方法がある。
もうひとつはゴールはそこだと思って、実は「道を間違えている」。


だが、
「ひとつはその道を通るとイレギュラーな解決方法がある。」
で、本人が「イレギュラーである」と自覚できなかった場合はどうするか。


説明できるわけーねーじゃん。


自分で説明しようとして本音「はっ」としたのだが、人に指摘をされたことで、
「あ、私のやり方は『イレギュラー』なんだな」と思って、わかるように説明しようと、
例によって、「最終ビジョン」をはっきり明示することが大事、というルールにしたがって、
「私のルールがこうだから、これはこうやって…」と説明した。


そしたら「それは当たり前=イレギュラーではない。レギュラーだ」といわれたのだ。


え?じゃあ「何を求めているの?」


で、気がついた。


「これ、こういうプロセスが大量に続くと互いの『時間泥棒』になるな」と。


そうなんだよ、「説明責任」をあまりに重視しすぎるとその当事者が「時間泥棒」をされてしまうんだよ。
その結果、行動して結果をだすのにものすごいエネルギーを搾取されてしまう。
それがすごい負担になる。
だから「普通になりたい」と思う。


ああ、そういえばこれマイノリティ問題で「課題」になっていたなあ。


ゲイである理由を追及されすぎて人間不信になって、二次障害的にメンタルに不調を起こしたとか。
異性愛者には「なぜ異性がすきなのか?」という質問はされない。


異性愛者には「なぜ異性がすきなのか?」という質問を答えられるか?
できないでしょう…。


当たり前のことって普通は「いわない」んだよ。
いわなくて「理解しあっている/みんながわかっている」と思っているものではないか?
だけど少数者だと「なぜか」聞かれてしまうし、心配されてしまうんだよな。
心配されると「過干渉」と感じて非常にうざい。


その「うざい」という感情が実は「一般に当たり前」なのか、そうでないのかわからなくて「心配しすぎ」で検索をかけて確認してみた。


たぶん「一般に当たり前」で解釈するのが正しいらしい。
ようするに僕だけの特別な感情ではないということ。


だとするとイレギュラーでない前提があるから「説明は不要」なはずなんだけど、「説明責任」しないと心配の過干渉がとまらないところをちょっとこれは「困ったなあ」…。


こういうことが一度ではないんだよ。


というか、人生の転機がすべて「心配をふりきって成功させる」というやり方で成功したいるんだよな。
ただ、年代、抱えているテーマの難易度が高まっている。(テーマが個人→対社会に変わっているとか)
そうすると「反対をふりきるため」だけにも「説明責任」がいる。


起こっていることは正しいという原則を考えるとまず「心配」を阻止するのが「説明責任」である、という考えをうたがわないといけないというのが本日現在の考え方になっております。


心配するというのは相手の心の中で「何か」私が失敗して悲劇にみまわれるシーンを書いていると思うんだ。
それを聞き出すことが手かもしれない。
それを聞き出して、それが私に対策があるかどうか、耐えられるかどうか、そこだと思うんだよな。


ちなみに昔抱えていた「話を聞いてくれない」問題は解決方法の1手段として、


「頼みごとをパワーポイントでプレゼン資料をつくってから、チェックシートつきで渡す」


というやり方をして、期限がきたら確認する、というやり方にして「かなり」事態が改善しました。
パワーポイントの感想を聞いて、それについてどうする?を確認するものです。


家族間の問題もそれで解決しております。


欠点としては製作時間がかかってしまうというのがありますが、「聞き流されて放置された結果の心理的労力」とのバランスを考えると心身の負担軽減にはいいし、口下手の欠点もおぎってくれます。


やりかたが「変」だけど視覚資料もありますので、結構いけます。


聴覚障害があるのに「聴覚優位」社会に過剰適応した無理をしない、という考え方におちつきました。
このブログのおかげです。
あーなんとか「コミュニケーション講座」完成させなきゃ。
テーマ、ランダムでいい?


悩んでいる人はおためしあれ。