「健常」「障害」よりも その2

周囲の友人・知人の間でも私の価値観は理解されにくい。
「ストイックすぎる」といった人がいた。


「適応能力が高いように見えるけど、実は相当無理をしていて本当は限界感じているのでは?」
はじめてそういう指摘があった。*1


私自身はあえて「障害者」「健常者」という表現を使いつづける。


「厳しい現実を意識する」「違いを理解する」「問題解決につなげる」ための「フラグ」という意味をこめる。


人間は、「障害者」「健常者」とわず基本的に「弱くて、怠惰で、恩知らず」という本質をもっている。


人間が理解しにくい苦しみとは「病、障害の苦しみ」「人と『違う』ことの苦しみ」と古今東西いわれている。


ほかの言葉でぼかすとそこに起こっている「問題」に対して「仕方がない」と問題解決の思考を放棄するということが「障害者」「健常者」双方に起こる。私はそのことを危惧していた。


そしてその通りになってしまった。


健常者が生きることが難しい時代は障害者にとっても生きることが難しい時代だ。
「健常者が生きることが難しいのに」という大義名分が簡単に通ってしまうのだ。


「障害者」は「健常者」の物理的に不可能な過度の欲求に強い「怒り」と「不満」と「恨み」を感じる。
なぜかというと「解決不能だからだ」
それが障害者の自己評価の低下につながる。
「がんばっても意味がないや」という思いにとらわれて社会参加もしないでひきこもった結果、「みえない存在」として社会の中に居場所を失い深刻な問題が発生する。


「健常者」は「障害者」に対して「できない」ということを許される存在への嫉妬心として「ずるい、卑怯、甘い」という感情をいだく。健常者もしんどいのだ。生きづらいのだ。「ストレス解消」「うっぷん晴らし」のために「障害者」を犠牲にする。また「自分の優位的存在意義」を確かめるために「障害者」を利用する。


いかなる「障害者」もこのような「厳しい現実」に対して向き合わざるをえないし、また同時にそれでも「人の中で生きるしかない」。


はっきりと問いかけてみる。「健常者」と「障害者」は「人として」標準化できるのか?
できるわけがない。


やはり「男」「女」という言葉があるように、「障害者」「健常者」もまたあってしかるべきだと考えるのだ。


しかし注意事項がある。


「男」「女」の現実が二元論ですっぱりと別生物ではないのと同様に「障害者」「健常者」もまた明確な境界線を引くことのできない存在だ。


その人的証拠のひとつがこの私だ。


障害者と呼ぶには障害を隠しても支障がでないレベルに健常者社会に適応できている。
そんなのは厳密には「障害者」とはよばない。
しかしその上で健常者と同じとするには問題が起こる。
一番大きな特徴は「言葉に対する概念」や「周囲の状況認知」「各情報の質の格差があまりにひどい」など。


理由は簡単だ。
「外部からの情報がはいりにくいから、基本的に自己完結しているのだ。」
外部の情報をとろうという本人の動機がない限り、その情報は幽霊と同じ、「幽霊がいるとおもわないと気付かない」という状況になるのだ。


聞こえる人なら「ガチャン」という音ともに周囲に何が起きたか、瞬時に理解する。
聞こえない人は「ガチャン」といったものを【本人が必要としたとき】にはじめて気がつく。
そこに状況理解に対するタイムラグが生じる。
小さいようだけどそれが世界観・価値観も大きく変えてしまう。


基本的には「周囲の状況・空気にあわせる努力」を美学にしているため、代替スキルはあるが、別のことに集中しているとまったくだめになる。


やはり違うと思う。「健常者になりきることはできない」
しかしその差異ばかりに注目して「線をひきつづけること」を繰り返せば、際限ない再定義が繰り返されて社会資源はあっという間に枯渇してしまうだろう。


まさに「福祉」が日本を滅ぼす。

<つづく>

*1:いや、実際そうなんで灰色になりかけた脳みそフル回転で戦略を考えている…ゆえに人付き合いが悪くなった2009年。人間関係って脳のCPUものすごく食って特に会話能力を使うとよく「ビジー」になる…。