「健常」「障害」よりも その3

私が小学生のときから日本の障害者政策に強い危機感を感じてきたのはまさにその部分だった。


たった10歳に満たぬ子どもが感じた強い危機が25年たってだんだんリアルな現実となってきた。
今の障害者福祉政策の迷走は私の目にはそのようにみえるのだ。


西洋的な二元論による社会システム構築の限界だろう。


ではどうすればいいのか?


「男」「女」「障害者」「健常者」である以前に「人間である」という広く一元化してみることができる。
つまり「男」「女」「障害者」「健常者」である以前に人間としてのその人のあり方が優先される。


フサイニー師「イスラーム神学50の教理」―タウヒード学入門

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具体的にもっというと「克己心が強い障害者」と「回避癖のある健常者」だったらどっちを支援するべきだろうか?


私は「克己心が強い障害者」はその人が「ヘルプ・ミーサインをだすまで」放置プレイでいいと思う。
逆に「回避癖のある健常者」を支援するべきだろう。


なぜかというと「克己心が強い障害者」はハンデが大きくても失敗にも挫折にも強いから結局は成功するのだ。


ところが「回避癖のある健常者」は成功体験も失敗体験も少ないから挫折しやすいのだ。
つまり社会からドロップアウトしやすいのは「回避癖のある健常者」だ。


そう書けばそっちのほうが自然だと思わないか?


ところが現実はその逆だ。
「克己心が強い障害者」に過保護・過干渉にしてその人のもつ生命力を破壊してしまう。
「回避癖のある健常者」は放置プレイで最終的に社会の荷物にしてしまう。


やっていることが逆だろう!


けれども確かに私が子どものころにはそれが正しい一面もあった。
社会資源としていかに「人を組織に適応できる人材に育てるか」という社会的大義名分があったのだ。


その場合「克己心が強い障害者」は非常に使いにくい。
「障害」という「個性」が強すぎて第三者の色にそまりにくいからだ。
さらに「克己心が強い障害者」は放置すると反社会的存在になりやすかった。
現在でこそ「障害者→いい人」のイメージが強いが、昔は「障害」ゆえに普通に生きることが難しく、反社会的行動で生計を立てることが多かったからだ。


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むしろ「回避癖のある健常者」を育てたほうが良質で使いやすい人材になる。
したがって「障害者」「健常者」を分離するシステムが考えられえたのだ。
また当時は障害、というと「当事者」しか見えていない政策が多かったと考えられる。
…それは最近あることを通して、気がついたことであるが…。


日本はまだましだった。
アメリカなどでは「障害者」「健常者」を分離するシステムは家族にも及んで、障害を理由に生き別れた親子も多い。


しかし2009年の今はスポイルされた「克己心が強い障害者」も「回避癖のある健常者」も福祉財政悪化の要因となる。


どちらを支援から自立させるほうが早いか、というと「克己心が強い障害者」だ。
反社会的行動が生計を立てる手段にならなければ社会にとって問題にはならない。


実は同じことが「愛される障害者」と「愛に飢えた健常者」の関係にもいえる。
どちらを隔離してケアしたほうがいいか、というと「愛に飢えた健常者」のほうだ。
ぶっちゃけいうと特別支援学級は「愛に飢えた健常者」にこそ必要だ、という考えだ。


…「愛される障害者」は自力で特別支援システムつくれるんですよ。
…有名な乙武さんがそのサンプルのひとつです。


ところが現実はその逆だ。
「愛される障害者」を特別支援学級へ隔離してその人のもつコミュニケーション能力を破壊してしまう。
「愛に飢えた健常者」は反社会的行動を一般学級・社会に待ち散らし、平和な学校経営など望めなくなる。
「愛に飢えた健常者」はさらに嫉妬心の裏返しとして「愛される障害者」を攻撃対象にする。
「愛される障害者」は自己防衛のために健常者への不信感を育てながら体力・精神力の続く限り戦い続ける。
結果、やくざの抗争顔負けの仁義亡き戦いが学校教育現場で展開する。


…私はそういう環境で育ちました…。
「愛に飢えた健常者」ほど凶暴で恐ろしい生き物はないと今でも思う。


このような環境は「愛に飢えた健常者」にとっても「愛されていた【はずの】障害者」にとってもさらに彼らを取り囲むその他一般にとってもよい結果を生まない。


その他一般は安全な学校を求めて、学校ジプシーをはじめる。
学校経営に関するコストが跳ね上がる。


やっていることが逆だろう!
人間は本来慈愛の心をもつので「障害」をもつことが「障害」になることはほとんどないはずなのだ。


しかし、これも上記と同じで「いかに人を組織に適応できる人材に育てるか」で「普通の健常者」にも余裕がなかった。そのために「愛される障害者」は効率を妨害するリスクが高いとして隔離し、「愛に飢えた健常者」は学校を含む人間社会からの追放というこれまた傷に塩をぬるような残酷な措置がとられた。


そうやって育った子どもたちが団塊ジュニアの人たちには多い。


「『人間である』という広く一元化してみる」の意味がわかるだろうか。


もっとわかりやすい表現としては「一緒に生きていこうと思えるかどうか」が大事でそれには「障害」「健常」関係あるのか?ということだ。


そうすれば必要なコストも必要最小限になるだろう。


ということで「障害者」「健常者」という言葉で現実を意識する必要はあるが、その表現にとらえわれないことも大事、ということを結論として久しぶりの長文を終えたいと思う。


以上。