人間の最大のごちそうは『会話』である


11月から12月まで来客が続いていろいろ話をして思ったこと。


もともと「結果」イメージから逆算して計画を立てて行動する人だとはわかっていた。*1
また「結果」重視なのでその感のプロセスとか、そこにこめる思いとかは一切無視!
というか「邪魔!」というのが基本スタンス。


想いとかプロセスなんてものはいちいち考慮していたらことが解決せんし、疲れる!というのがその理由。


集団の想いがある程度一致するのであればそれはありで「社長・経営者のビジョン」なんてものはそのためにあるわけで、普通はまず一致するなんてありえない。そんななかで個人個人の事情にあわせていたら、めちゃくちゃになるし、しんどい。


逆にそういうことがあまりに多すぎたことの裏返しなんだけど。


というわけで他人のイメージでは「結果がでる&締め切りまでとことん付き合うがそれをすぎたら冷酷なまでに冷たい人」そんな感じかもしれない。


それでも個々の事情を最大限考えて最大公約数だしてきたほうだとは思う。
「お前周囲の状況、いや最低でも今の私の状況考えて行動してくれ!」と思ったこともいくらか。
集団の役割を考えない自己主張で誰かがその尻拭いしていること気付かない人も増えてきたんだね…。


こういうときは「世の中がそうなっている」という前提でまたあわせるようにしている。
僕は「自分の価値基準」に対しては「みんなの方向の反対に向くあまのじゃく」というフランス人的発想だけど「空気とか流れとか調和を極力乱さない」その部分だけ変に日本人的。


「私」と「他」をてんびんにかけたときに「他」を優先しろとは徹底的に叩き込まれているので「空気とか流れとか調和」を重んじる価値観もあって、「自分のことは譲らない」というキャラクターでも世間を渡ってこれたと思う。


しかし僕の場合は友人いわく文字通り受け取って行動しているため、「極端=過剰適応」な結果になっているらしい。


本来は「人間は自分のことしか考えない」のが前提で「他」を優先しろといっておけば、少しは周りの動きも意識するため世の中が回りやすくなる、というぐらいのものらしい。


僕の場合は「他人のために命を捨てろ」と教育されている中で「他」を優先しろといわれていて、でも自分へのこだわりが強くて捨てきれない自分=生存欲求が強い、その生存欲求の強さがコンプレックスであるというか、固執してしまうというか。


だから自己愛的なものをさっさと片付けて楽になりたいと思っていたりした。
自己愛満足させるためにはある程度「自分を優先しないと」片付かないものだったんだな、と最近思う。
それが人間関係のしんどさにつながっているのだろうと改めて思った。


人間関係が広いとどうしても自分以外の用事も増えるし、物理的に消化できる量にも限りがある。
「人間関係がせまくないか?」といわれたこともあったが、ひろげすぎると心身ともにかなり負担だ。


基本的に自己主張の強いやつが多いのはわかっていたけど、極端な気がしていたんだよ。


類友ではないが、コミュニケーション能力にハンデを感じている人も多い。
というか、この場合は僕でないと対応できない。(外国人、聴覚障害者だったりとか)
「わー日本語難し〜」と僕でも思う。
「要は何をしろ(do)と?」というレベルに要約するのはまた別のセンス(能力)なんだなと痛感。
相手の目線で表現を選ぶというのかな。
コミュニケーション能力にハンデをもつとはいえ、それぞれのやり方で工夫したコミュニケーション手段をもっている。それにあわせるというのかな。


もっと「ん?」と思った特徴は僕と根本的にあわないとか、僕に余裕がないときに「ほかをあたれ」といっても僕のところにくる。


このケースは男ジェンダーも困るが、女ジェンダー(MTF含む)はもっと困る。
ヘテロセクシャルなんで変な期待されたくないから。
ジェンダーの方は扱いは慎重になる。


「なぜ?」と思っていたら、「ほかに頼れる人がいないから」という。
「そんなバカな!」と思っていたのだけど、ほかの人は「話を聞いてくれない」んだね。


たしかに「名が体を現す」ではないけれど、「伊東聰」の耳偏がはいる「さとし」、
どんな人?という話を聞くと「一生懸命話を聞いてくれる人」というのが多い。
もっと深い関係になると「秘密主義」だったり、「ある一線で心に壁のある人」というのもある。
「難しい人だ」という見方もわかる。


「一生懸命話を聞いてくれる人」って耳のハンデの裏返しで「そりゃ誤解だ!」と思っていたのだけど、そうではないらしい。やはり「聞いてくれる」、つまりほかの人が「そんなに話を聞いてくれない」ということだ!


つまり「聞こえる人」は「話をきいていないんだな」ということ。


でもたぶんうまくいっているということはそのほうが「うまくいく」何かがあるのだと思う。
僕がそのまままねをするのは危ない気がするのだけど、でもたぶん「今相手できない」とか明確にするより、「聞いたフリをして流す」ほうが人間のメンタル的にはうまくまわるというのはよくわかる。


すくなくとも「拒絶された」とうけとられなくてすむ。
物理的な問題で私にはできないわざだけど。


「わがままなことをいっても聞いてくれる人」と思われていて、願いを優先してかなえてくれるから「自分は彼(伊東)にとって特別扱いを許される存在だ」と勘違い、はたからみると「ほかのみんなにも同じ対応をしているから、伊東にとって特別な行動ではない」とわかるらしいが、自分しか考えない人にはそれがみえない。


本来は「人をもてなす」のが大好きなんだけど。
でもオフ会などイベント開くことがない大きな理由はそこ。
複数人になるとストレスになることがある。
大きなイベントのときはおのおのの大人の対応に期待するしかないよなあ…。と、天を仰いで見たり。


年をとるにつれて大人の対応できる人のほうが増えてきたけれど…。


そういうの感じさせないで、話がはじけていたらすごくうれしいよね。
「人間にとっての最大のごちそうは『会話』である」と僕は思っている。


でも、複数人の会話のやりとりが理解できない僕は「会話」というごちそうをだせない。
だから、せめて参加者が「ごちそう」もちよってわいわいできるように場所をつくって、食事をだす。
「会話」の代替。「個別」だったら、「個別」にコーディネートする。
これでも限りがあるので、私からみえないあなたに対してブログで情報UPして「もってけドロボー」。
これももてなしです。
「個別」対応よりもっとひろくもてなすことができる。


政治的には対立している「敵同士」でもここでは共通の遊びで楽しめる、
いろんな異業種の人たちがであって自宅パーティみたいに楽しめるものをつくるのが
僕にとっては究極の理想なんだよね。


考えてみたら、これって茶の湯の精神に似てる…。

*1:ただしこの考えには確かに欠点はある。外的要因で計画が変わったときにプロセスを意識していないために、臨機応変な変更対応がうまくできなかったり、「結果」がみえにくい状態で行動することは難しい。また、プロセスの途中で第三者に説明するのも昔は困難だった。今は時間や作業でマイルストーンを設定するようになったが…。