障害とはなにか―非言語の曲解

今のとこ分類不可。

しばらく、いろいろとあって、
こちらのブログ更新までに手がまわらなかった。


本日は思うことがあったので、書いてみようと思う。


いろいろな縁あっていろいろなタイプの
「障害」もちの当事者と知り合った。


共通点がある。


障害と認定されない障害、他人にわかりにくい障害の当事者であった。


さらに彼らの中で共通意識を発見した。


「障害」のカムアウトが必要なとき、である。


相手が余計な意味をよんで誤解しやすいものに関してはカムアウトが必要だ、ということである。


私は基本「私が話したままをうけとって判断してくれ」と頼む。


これをしないと「余計なお世話」が発生して、私が激こうすることになるからだ。


なぜ、「私が話したまま受け取ってくれ」というのか。


日本人の悪いくせで、
健常の人というのは「裏の心理を読んで、たちまわろう」とするのだ。
これが私にとって非常に迷惑なことがほとんどである。
こちらも全体を考えて周囲が動きやすいように、
表現しているのにわざわざトラブルの火種を
起こしてしまうような人がいるのだ。


「わからん」


そんなことするから、日本人はストレスがこうじて「うつ病」「統合失調症」かかりやすいんじゃないか?と思うぐらいである。


極端なことをいうと今私が機嫌がいいかどうかなんて、
人には関係ないだろうと思うのだ。
だから必要なことしかゆわないのだ。
でもそれを聞いてくる人がいたりして、逆にいらいらさせられることがあったり。
こちらはAという切り札をだしているのになぜBをかえすのだ。
それで問題をこじらせる。
そっちのほうがおかしい。
言葉はなんのためにあるのだ。


「ほっといてくれよ」と思うわけ。


理由はある。
私自身が、人の話を聞いているときに
相手の非言語まで読み取ることはできないからだ。
「目で聞いているからだ」


聞こえる人は耳で話を聞きながら、目で非言語をよんでいる。
言葉のヒヤリングができなかった昔は非言語よむのは得意だった。
でも、言葉に集中するようになってからはできなくなった。
どちらも目を使うから両立ができなくなったのだ。


また聞くのに必死なときは、自分の非言語も適切に使えないときがあるのだ。
だから非言語をよまれると読み違えることがある。
それとキャラクター的に気難しい。
それでは角がたつから、とわかりやすいキャラを心がけているところもある。


たとえばなぜ今まで無理難題をいうわがままな知り合いが多かったか。


理由がふたつある。


わがままな人は「その人のキャラや要望がわかりやすい」。
誤解しないようにはっきりあからさまに伝えてくるから。
コミュニケーションがとりやすいのだ。
そうでない人は「・・・なんだけど・・・」と
あいまいに表現して、非言語で「実は…」とにおわすから
非常にわかりにくい、いやまったくわからないといっていい。
あとから「なんでいわない???」、「いや、いった!」というさわぎになりやすい。
だから非常にめんどくさい。


もうひとつはこちらの非言語、
「目で聞く」から、相手からみると「話を聞いてくれる人」にみえる。


慣れた人に聞くと実際には「興味ないし〜」みたいな
聞き流し反応もあるようであるが。


わがままな人をひきつけやすいのだ。
「話を聞いてくれる人」=特別な人という認識で勘違いしてこじれる問題もある。


私はわがままはわがままでも「自分のことしか考えないわがまま」は大嫌いだから。


でも相手が自分のことを特別だと思ってしまうとそういうことになってしまうのだ。


非言語はあまり信用しないほうがいい。
人それぞれ意味が違う。


もうひとつ「やばかった的」話を聞いたことがあった。


友人からの話である。
私の友人同士で「会いたい」という要望があり、会ったそうだ。


そのときに相手がそわそわして落ち着かない様子だったのだ。
実は事前に私は一方に一方の「障害」があることを伝えていた。
そのそわそわは結果的に「障害」の発作であったのだけど、
それを知らせてくれたことに「ありがとう」といわれたのだ。


もしもそれが「なにか」知らされていなかった場合、
一方は「なにかそのあとに用事があるのだろうか。」
「いそいでいるのだろうか」とかなり気を使って
おちついた対面なんかできなかったらしい。


人にかかわるときに「話の内容でしか把握していない」私としては、
はじめて友人の障害を本質を知ったのだ。
そして健常といわれる人のコミュニケーションのとり方も知った。


「そういう形で気を使っているんだ。」
そして予想だにしない非言語の曲解で
とんでもない誤解される友人も気の毒だとも感じた。
大変だなあ…とも思った。


障害をもつということ、そのものはたぶんその人にとっては障害ではないと思う。
その人にとって当たり前が対人関係上で誤解されるからこそ、障害になる。
そんな気がした。


私としてはそうだな…。いろいろなことがあるとは思うのだが、
まずは「表現をしたままを受け止めてほしい」と思う。
本当にやばいときはヘルプサインをだすべきところにだしている。
はっきり「何を助けてほしい」といっている。
それでいい気がするんだよ…。


でも昨今の事件をみていると、すべての人には絶対にあてはまらないので
結局個々のキャラクターで判断するしかないと思う。


とにかく私は「しかるべきところにしかるべき助けを求める」。
しかるべき手段を講じる。
だからやばそうにみえても実は大丈夫、と宣言しておこうと思いました。


「助けて、といわない限りは助けはいらないよ。」
「同情はもっといらないよ。」


でないと余計な「事情説明」という仕事が増えて、かえってロスが多くて…。
恩師がいっていたことがある。
「事情説明といいわけを考える時間ほど苦痛でロスするものはない。」
まさにそのとおりなのです。ハイ。


わざわざなんでと思うかもしれないけど、障害なんて余計なもんかかえているとほんとに多いんだよ、その手のトラブル。理由を求められるトラブル。

かといって、大丈夫宣言してしまうと、本当に必要な助けを求められなくなるリスクもあってあぶないんだよ。

なんで障害の場合「本人がやりたいにいちゃもんがついて、ほっといてくれない。助けが必要なときに「自己責任の名のもとに」一ゼロになるんでしょうね。