あらためて概論「はじめに」

■「ありのまま」ということ

世の中にはいろいろな人がいる、ということで、この記事も「共感」できる人でないと「興味がない」たぐいのものになるとは思うけれど、私のライフワークのひとつになっているので、書いてみようと思う。


先日の記事で、「ありのままに」という価値観に反感を感じるという旨を書いた。理由がある。私自身が自分の「神に与えられた」あらゆるものをカスタマイズ、つまり「改造」することで自分の人生を勝ち取ってきたからである。つまり自分が「こうありたい」設計図に対して、開発方針を定め、調査、要件定義、時間・費用の見積をだし、そして開発、運用。締め切りまでに結果をだす。


私の本業である「IT傭兵」の仕事(特に「開発の受託」の場合)にはよくある業務フローであるが、私は自分の人生や身体にもそのままそのやりかたをあてはめてきた。


自分自身の「ありのままに」与えられた身体や人生が大嫌いだった。しかし、人間は自分の宿命=神から与えられたもの、から逃れることができない。子供のときは何度も「消えたい」「死にたい」と思った。死の世界は常に私の人生と隣り合わせだった。だが、周囲の人にはそれが「本当のありのまま」ではなく、周囲の「理想の子供」であったというゆがみがあったにせよ、私はたぶん一番愛されたと思う。そのことが逆に生きることへの苦痛へとつながっていった。


自分が感じる「ありのままに」と他人の感じる「ありのままに」の不一致。「自己認識と他者認識の不一致」。それが第一の苦痛の原因である。



■自分の「身体」に裏切られる、ということ
第二の苦痛。「障害のために」自分の身体にも裏切られる現実。この体験は多くの人には「未経験」だ。多くの人は「自分の体は自分の思い通りに動く」と考えている。だから、健康上の問題を「病は気から」で解決しようとする。


ストレスコーピングという観点からその指摘の2割は「真」であろう。なぜなら「何かを感じる」という「感情」、それは他人のせいにはできない「本人が選択するもの」であるからだ。人は「感情」を害したとき、なにか第三の外部的な要因にそれをもとめる。が、実は違う。「感情」というのはその人が自由にコントロールできるものだ。それができるからこそ、「人間」である。「理性」をもつ人間ならではの唯一の特技である。


しかし「制御不能に陥る」こともある。もしもそれができない、「理性的」でいられない、ということであれば原因は「その人の心の弱さ」ではなく、なにか「病理」「障害」が隠れている、と考える。たとえば「解決手段の乏しさ」に原因のある「心身にかかる多大な作業負荷」とか「睡眠不足・過労状態」「その人らしさの極限の抑圧」などである。私が大事だと思うのは「極限の栄養失調」に気をつけること。つまり、「精神を生み出す身体に問題がおきていないか」これが私の基本方針である。


システム開発ではハードウェアがダメであれば、ソフトウェアがまともに動かない、は「当たり前」である。しかし人はなぜか「身体」というハードウェアの故障を「精神」というソフトウェアが解決すると思っている。不思議なことである。


■「改造する」ということ
自分自身にも裏切られつづけて、他人にも理解してもらえない。そんな状況を救ったのは「ありのままに生きる」という仏教的な考えではなくて、具体的な解決指針をしめす「医療技術」あり「工学的技術」であった。それによって「身体的改造」が可能になってくるにつれて、私の感じる「ありのまま」が他人に伝わるようになり、やっと救われたわけである。


やはりハードウェアの故障はハードウェアの故障として治さないといけない。ソフトウェアのパッチは根本的解決ではないのだ。


「ありのまま」といわれなかば「放置」されてきたような状況を「改造すること」で得た生きる喜び、社会への挑戦心、人とふれあうチャンス。そういう「改造計画、設計、実装」は「方法と見積」を間違えなければできるんだよ、そんなことを伝えようと行動してきた気がする。


だが、リスクは大きい。身体改造…とうたいながら、一方でけん制する記事を書くのは「魔法の技術」ではない、二度と戻れない、やり直しが聞かない、というものであるからである。「医療技術」「工学的技術」には弱点がある。第一に手法の開発、テストに数十年単位の膨大な時間がかかり、技術の発達をまつのでは人間の人生に間に合わないということである。第二に結局は「神のつくった」基盤である「身体」を完全無視した「改造・改変」はできないという制限事項である。第三に「何が人間にできて、何ができないか」という神と人間の領域を人間が判断することは不可能であるという現実である。


イスラームということ
たとえば1から開発するようなものであれば、最低20年はかかる。一番難しいのは技術そのものではなくて「そこにいたるまでの考え方」である。さらに技術に対する期待は人間そのものを破壊する「暴走」を生みかねない。


そこに必要になってくるのが「哲学」ということになる。しかしマニュアル化されていればその20年が2年になる。そのため、ある程度過去の実績から読み解けるものはなるべくマニュアルを参照したほうがいい。それが歴史学であり、前例・専攻研究である。しかし、「想定外」という「前例なき」とされるものがある。その場合は「哲学」の世界になる。


たった一度の人生、ひとつのプロジェクトに20年も費やすわけにはいかない。なにか「哲学的に考えるマニュアルはないのか」と考えた場合に、究極的に「宗教」という生活習慣のマニュアルがどのように考えてきたかを研究することになる。その結果、「一番ロジカルで合理的、かつ再現性テスト可能な思考ツールを提供しているのはどれか」というとイスラームであった。


イスラーム一神教の究極的な形と、当事者でない人には考えられがちである。日本においてはあるキリスト教一派のもつ「がちがちな」To Match ruleのイメージでとらえられて、身体改造イスラームという設定をすると首を傾げられることが多い。しかしいろいろな諸事情から身体改造が必要な人、望む人というのは出てくる。そこにきちんと向き合ってある種の「指針」を示すことができるもの。それがイスラームのもつ一面である。


そういうわけでイスラーム法学かじりながら、身体改造研究して、実践しフィードバックする。そんなところである。