普通は「自己愛」がある。

とあるNLPのワークショップでワークを楽しんだ。
「言葉」をテーマに各種イラストを描く。
20分以内に書く。


そして心理鑑定士に見せてみる。


私のイラストは心理鑑定的に「大爆笑」。
「超ナルシスト」
各イラストの中に何人が「自分自身が入っている」。
さらに「絵が細かい」=自己イメージを強く持っている。


「そしてさびしがりや」。
3人以上だとトラブルになると思っているが、一人ではさびしい。


そして指摘された問題点。


「ナルシズム満たされていない。」


「自分のやりたいことをやれていますか?」


どんなナルシストでも長く続けていると、普通は満たされて「あきてくる」のだそうだ。それが何十年もつづくということは、「やりたいことをやれていない」か「未完成と思っているから」とのことだった。


障害者問題など、いろいろなワークをやるとかならず結論部に「他人の受容の大切さ」がでてくる。しかし私の経験上ではこれは「NO」、少なくとも万能ではない。最終的に信頼できるのは「全員が理解してくれなくても、自分ひとりだけでも自分をうけとめてあげること」、つまり「自己愛」である。「他人の受容」を第一義にしてしまうと、自分の人生に責任をとる生き方はできなくなる。その結果、「社会のせい」「親のせい」「誰かのせい」と他罰主義になり、自分を変えるということをしなくなる。


多くの人がおちいるのは「自分が望むように他人が変わってくれること」のようだ。まず、自分を自分の「自己愛」にしたがって望むように変えるということをまずしない。他人の許可を求める。他人の許可がおりるのをまちつづけて人生を消費してしまう。


「他人の受容」にはもうひとつ問題がある。「共依存」である。特に障害者の場合は「他人が望む障害者の克服ストーリー」というのがあって、そこを逸脱しようとすると非常識として矯正する、というプロセスがおきやすい。障害者側からすると生活がかかっていたりするのでとりあえず他人の要求をうけいれる。だが、自尊心が傷つき、結果自分自身を受容できなくなる。


普通は人間には「自己愛」がある。自分自身の「ありのままに」与えられた身体や人生が大嫌い、ということは普通はおきない。たとえ、その姿が異形のもので第三者が「彼のようには生きられない」と感じたとしても、「彼」は生きられるようになっている。それが自己愛の力であり、「自殺」という行為が簡単にできないのも、この「自己愛」の力である。


にもかかわらず「ありのままに」与えられた身体や人生が大嫌い、ゆえに「死にたい」という「結論」がでる場合、どこかで「自己愛」が病むほどの「障害」を負わされていると考えざるをえない。その障害の原因になりやすいのが「他人の受容」である。


「自分の人生の設計図どうかいてますか?」私が必ず大事なこととして質問する話であるが、意外なほどうまくかけていない人が多い。そして人生そのものも他人にふりまわされて不安定になっている。なかには「『うけいれられたい』が自分の希望だから、自分がどうしたいはない」という人もいる。ところが、いざなにか提案をしたときに逆に「あれがいや、これがいや」が多いのがこのタイプである。「うけいれられたい」が目的では?やはり「自己愛の制限」というのはかならずあるのだ。ということはさっさと自覚してしまって設計図かいてプレゼンテーションするしかないでしょう。


他人にできるのはそれを「うけいれるか」「うけいれないか」。「うけいれない」のであればたもとをわかつしかない。非常識という言葉でそれを変えようとするのは論外である。


実はとある就職相談をうけていたときに、気になっていたことがあった。「自分をうけいれてもえらないから」という理由でひきこもり状態になる人たちのことである。職を点々とする人たちのことである。けれども彼らをみていると十分に私よりも「受容可能なキャラ」なのである。にもかかわらず自ら心の扉を閉ざしている。それが大きななぞであった。


ところがあるときに気がついた。「受容可能なキャラ」、それ自体が仮面ではないか?という事実に。要するに問題点は「彼らのキャラのプレゼン能力」なのである。プレゼン能力に自信がないから、「受容可能なキャラ」の仮面をかぶり、それがさらにその人となりを伝えにくくしてしまっている。そしてそんな事実に彼らは気づかず、「自分をうけいれてもえらないから」と感じていたのだ。


因と果が逆だった。その処方箋は「とにかく嫌われてもいいからキャラ立ちを確立すること」である。その人の「仕様」をわかりやすくすることなのだけど…やはり「障害」になるのは「他人の受容」。


もしかしたら親などの第三者によって彼らはいじられすぎてしまって、「自己愛」の出し方がわからなくなっているという可能性もあって、根はあまりにも深いが、時間的コストがかかりすぎるためにそこにアプローチするセラピーというのは残念ながらほどんと皆無である。