「髪」のこと 3ミリとNothigの境界

エジプトから帰ってきて、美容院にいった。
瞳の色と同じ色の髪にしようとした。

私の瞳の色はオリーブ色に近い「茶」。
標準的日本人よりだいぶ薄い。

それとまったく同じにすると社会生活難しいかなと思い、
少し色を暗い状態にした。


また印象が違う。
というか、なんか似合う。
「日本人=黒髪ではないかもと考えている」
担当してくれた美容師さんはいった。


髪の長さは肩ぐらいでやっと結べるようになった。
それを結い上げてみると
「やはり、これが落ち着くなあ…」



■長い黒髪
アイデンティティの強い人間がほとんどそうであるように
私が自分の髪型を誰かのススメで変えたことはない。
なぜなら、髪というのはものすごくその人間のあり方、
思想、哲学、人生すべてのものをあらわす象徴だからだ。


私自身を象徴するもの、として、
長い黒髪、一時期は股下に届くぐらいの長い髪であったこと。
中学卒業してからほとんどそうなので
一番長い時間そのようであったこと。


しかし、陰間的なスレンダーな柳腰にはあこがれはしても、
私的に「駿河人体型」とよぶ−北条時政をはじめ
徳川家康今川義元のような下半身のどっしりした体型−
こればかりは現代医学でもいかんともしがたく、
私の身体イメージは実際のところは鎌倉時代の寺社に
勤務する稚児さんタイプ。
下手をすると「秋葉のオタク」。


超ロングヘアは若い人向きの髪型だ。
スピリチュアル界で俗世間と離れた生活をしていない限り、
若い人でないと維持できない。
年齢を重ねてくるとものすごく心身のエネルギーを奪う。
中国の気功の世界でいうとやはり「気」を相当奪うらしい。
その関係もあってか、太りやすくなってくる。


■超ロングヘアとスキンヘッド
超ロングヘアの時期は長かったが、
10年に一度スキンヘッドだった。


一番最初にやったのは25歳のとき。
めちゃくちゃすっきりした。
スキンヘッドにするのが一番ストレスが消える。
肩こりや首、背中のこり、全身の疲労感から全部消える。
頭も中もいい意味で「バカ」になる感じ。


二度目にやったときは35歳のとき。
で、昨年の11月に三度目。
それを伸ばして今の長さ。


さてしかし、
長髪にしてもスキンヘッドにしても難題がある。
なにも考えずに好きな髪型をしたいところだけど、
「うけいれられるところが少ない」ということ。
「髪がない」ってなるとやはり「異形」なんだろうな、
スキンヘッドは職業をよほど選ばないと
対社会的にはすごく気を使う。


なのでそのままでいてみたいと思うことがあっても
結局伸ばしてしまう。
で、またデフォルトの黒髪の長髪に戻る、と
いうサイクルになる。
スキンヘッドでながくいたら
また何かに「化けたかもしれない」。


整髪料がないとまとまらない中途半端な長さというのが
苦手で、坊主頭で1センチのびてもいらいらするので、
結局「結べる長さ」の長髪か、
なんにもないスキンヘッドか、
どちらかになってしまうという…。


総合的には長髪のほうが便利。
スキンヘッドにはアーユルヴェータ的には
デトックス効果もあるのでたまには…ね。


■3ミリとNothigの境界
スキンヘッド姿で実家に帰省したとき、さすがに母に
「スキンヘッドはやりすぎ〜。心身に問題がある!」と
いわれてしまった。


茶人の坊主というのは3ミリなんだとのこと。
この3ミリには俗世への帰属の意味があるんだとか。
「まだ俗世に身をおいております」との意思表示だとか。


スキンヘッド姿、すなわち本当の剃髪姿にすると、
「俗世の欲までは全部おちてしまい、
還俗して髪をのばしても
『一般社会』で生きにくくなる」らしい。
「社会的に死んでしまう」ということらしい。


つまり剃髪そのものは髪が伸びるとはいえ、
心身の影響力としては不可逆なんだとか。
だからスキンヘッドにするのはよほど慎重にしないと
人格改造並みにやばい、とか。


価値観そのものが僧侶みたいになるそうな。
「どうせなら、『今』のうちに僧籍とれば?」
みたいなつっこみも…(苦笑)。
(あの…あの業界、結構お金かかるのですよ…。)


スキンヘッド姿にしてしまったのだから、
「手遅れじゃん(汗)」。
「髪型はファッションでしょう?」では
おさまりきらないToo Much 法則が…山盛り。
…別に人生で困ることないからいいか…。


スキンヘッドすることによる人格改造というのは
ある程度「心あたり」がある。


確かにある「3ミリとNothigの境界」。
3ミリ坊主までは超ロングのときと
身体感覚としてはほとんど変わらない。
変わるのは髪をかわかす時間の長さだけ。
(あらう時間とシャンプーの量は変わらない)


しかし、スキンヘッドだとあきらかに「何かが変わる」。
髪の毛で感じていた神経的な刺激がすべてなくなる。
はじめて剃髪したときは頭皮が麻酔をうっているように
しびれている感じだった。


2回目のときは「あれ?神経が通っている?」という感覚。
全身の神経が新たにネットワークをつくったな、と
もろに体感できる感じ。


髪の毛自体が血と神経のかたまりで、
いろいろな念が髪にやどるといわれる。
髪の毛という触覚がなくなることで、
全身の皮膚感覚は危機感を感じてするどくなる、
覚醒していく感じなのかな。
脳で考えるあれこれは消えて、身体感覚のほうがするどくなる。
思考がすごく直情的、直感的、肉感的になる。
髪がのびると消える…。
消えるのだけど、それを知ってしまうと
「一線越えた」感じはあるよね。

このことと、
「僧侶にはいわゆるエロ坊主がいる」ということと、
矛盾はしていないと思う。
その人のもっている「あり方」みたいなものが
余計な「飾り」を落としてシンプルになるんじゃないかと思う。


髪がなくなれば色情がなくなるみたいな
単純なものではなくて、
逆にその人がその人のあり方として「色情」をもっていたとして
それが素直にシンプルに可視化、
行動化されるのではないかと思う。
色情が世間でどういう意味をもつかみたいなことが
瑣末なことに感じられるようになるというか…。


俗世の価値観と外れてしまうというのは
そこかもしれないね。
「さとりを得る」「煩悩をなくす」というのも。


ほかの体験者にもいろいろ聞いてみたいところだけど…。
どうなんでしょうね。