仏御前虐殺事件の謎−祇王と仏御前− その2

前回までの記事。
[さとしの独断人物伝]仏御前虐殺事件の謎−祇王と仏御前− その1 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


次の5月の野洲行きにはこれにいきたいんだよ〜。
http://www.city.yasu.lg.jp/doc/kyouikubu/hakubutukan/20120428.html
http://www.city.yasu.lg.jp/doc/kyouikubu/hakubutukan/20120428.html


祇王


祇王寺というと実は2つあって、ひとつは奥嵯峨にある。
祇王寺 京都奥嵯峨 「平家物語」悲恋の尼寺 - 京都奥嵯峨「平家物語」悲恋の尼寺として知られる 祇王寺 の公式ホームページ


祇王寺の縁起はこれである。
http://www.giouji.or.jp/rekishi/index.html


もうひとつは先に述べたふるさと野洲の妓王寺である。
http://homepage2.nifty.com/lame-ru/genpeisg/giouji/giouji.htm
http://homepage2.nifty.com/lame-ru/genpeisg/giouji/giouji.htm


祇王寺と妓王寺。字が違うのです。「祇」は宗教的、出家のイメージ。
「妓」は芸妓のイメージつまり白拍子現役。


祇王の生家跡らしい。


平家の家人・江部九郎時久の娘とも北面の武士橘時長の娘ともいわれる。1172年に38歳でなくなったらしいので逆算すると1135年生まれになるが、1153年説もある。保元元(1156)年の「保元の乱」で父が戦死したために白拍子の技能で生計をたてていたらしい。母の刀自、妹の妓女とともに、京都で有名な白拍子となり、21歳とき50代であった清盛と出会い、愛妾となる。その際に清盛に願ってつくったのが野洲祇王井川である。

出家後の名前は性如禅尼で、承安2年(1172年)8月15日に亡くなった。


で、やっと本題にうつると非常に「変な」ことになっているのだ。


仏御前に寵愛を奪われ、なくなく館を離れる祇王
女心のわからない清盛は引退して仏御前のために祇王をよび出して舞をまわせる。
屈辱感でぼろぼろになり、自殺まで考えた祇王は思いとどまり母、妹ととも出家した。


この事件、史実に基づけば承安4年(1174年)になる。
仏御前が上京したのがこの年だからだ。
つまり祇王と仏御前は面識がないのだ。


実は大きな謎がここにある。
これをさとしの「煙の立たないところには」方式で「独断偏見」でよみとこうというのが今回の趣旨だ。


祇王と仏御前」の物語は以下である。
wikipediaより
妓王 - Wikipedia
仏御前 - Wikipedia

平家物語でいえばこんな話。

エラー - Yahoo!ジオシティーズ
http://www.genkikyoto.com/rekishikankou/kuwashii/giou/giou.htm
祇王井川
http://www.biwa.ne.jp/~tam/sansaku/report/02%20gioh/gioh.html

以上、調べた各資料を真実としてまとめてみると百聞一見こんな年表になる。
これはいったいどうしたことか。


祇王の享年
祇王(ぎおう)と祇女(ぎにょ)の物語
http://www.city.yasu.lg.jp/doc/kyouikubu/kyouikusoumuka/files/7387.pdf

野洲の伝承では38歳でなくなったことになっている。
平家物語では21歳の祇王が登場する。
保元の乱のときに祇王が4歳だったとすると、祇王の享年は20歳になる。


<さとしの考え>
たぶん38歳が正しいと思う。
・4歳で父を亡くしたとすると母刀自が白拍子として生計をたてることになるが、その話がない。(未亡人でいる期間がながすぎる?)
それを考えると父を亡くして生計のために白拍子になったらそれがブレイクした、のほうが自然かも。清盛50歳のとき、清盛の愛妾(33歳)で権勢を振るっていた。
・38歳のときに病か何かで祇王は母と妹に先立ってこの世を去ったと思われる。
・妹の妓女も出家しているのは「なぞ」だけど、たぶん白拍子生命たたれるような何かが起きたか、すでに出家してもおかしくない年齢(36歳)だったか。両方かもしれない。
祇王が死んだために母と妹は別邸に下がっている。でなければ祇王が死ねば祇女で勝負するだろう。
・仏御前がでてきたときは祇王の死後3年であるが、たぶん世間にあまり祇王の死は知られていなかったのかも。なので仏御前が清盛の愛妾になったときに「あれ?祇王は?」という話になり、平家物語の「祇王」に代表される展開になってしまったのでは?。平家一門でも池禅尼とその息子頼盛の死があまりニュースになっていなかったりするので当時の世間のニュースはかなりきまぐれなものと考えないといけない。

◆仏御前と祇王の関係性
<さとしの考え>
・御前と祇王の面識はないが、仏御前は祇王をリスペクトしていたかもしれないのだ。つまり関係性としてはマイケルジャクソンとエルビスプレスリーの関係性に似ていたのではないか。お互いに面識はなかったが、祇王の残された家族、母刀自と祇女とは付き合いがあった可能性がある。


 祇王井川竣工も1174年になっている。たしかに祇王の願いであったかもしれないが、その願いを知った仏御前が尊敬する先人のために後押しした可能性もある。


 実は仏御前が清盛のもとを飛び出す1177年というのは清盛、いや平家にとって「危機の時期」でもあった。前年である1176年に建春門院滋子、清盛の妻時子の妹がなくなっている。そのため後白河上皇と関係が悪化、1177年には鹿ケ谷の陰謀など平家の立場が微妙なものになっている。そのことがもしかしたら仏御前の出家欲をさらにかきたてたのかもしれない。
 その気持ちは「つくづくものをあんずるに、しやばのえいぐわはゆめのゆめ、たのしみさかえてなにかせん。」(平家物語祇王にあらわれていると思われる。
 清盛がひきとめたらしいが、たぶんもともと仏御前は出家するチャンスをさがしていたような気がする。


 1177年〜1179年の長男の平重盛、次女の平盛子の死により荘園をとりあげられたために、平家の経済基盤ががたがたになった。その影響が祇王の残された家族たちにあらわれた、というのが「毎月の援助の百石、百貫も止められ、」という事態。いよいよ自活が難しい状況になっていた。そこに救世主のごとく彼らの前にあらわれたのが出家した仏御前だったということではないだろうか。
 


◆仏御前、故郷に還る
 仏御前は祇王の残された家族たちと一緒に住み、平家に頼らない経済基盤の建て直しをはじめた。祇王の物語の原型はそのときにつくられたのかもしれない。いわゆる青空説法のような形で。「二人の人気白拍子の悲劇の物語」、実は仏御前のプロデュースだった可能性があるのだ。


 というのは仏御前がふるさとに帰るときに木像を残している。
「いったいなんのために?」
なぜ仏御前はふるさとに帰ったのか?


仏御前

このリンク先の物語がくわしい。
平清盛ゆかりの地を訪ねる/妓王と仏御前の悲哀/NHK2012年大河ドラマと神戸・京都・広島をゆく
http://www.taigadrama.org/kyoto/kyoto11.html


 本当であれば奥嵯峨で一生を終えたかったに違いない。
しかし「プロジェクト」遂行中にあることに気がついた。


清盛の子供を宿していたのである。
たぶん別れの餞別に情をかわしたのが「当たった」感じである。


当時の慣習として出産は実家で行っていたということと、尼姿で子を産むと清盛に恥をかかせることになるということ(ほかの古典をみているとかなりバカにされそう)。ぎりぎりまで京都でやるべきことをやったあと、もしかしたら木像ができあがるのをまっていたのかもしれないが、「この木像を私と思って」との話なので要は仏御前のプロマイドを残したようなものである。そうして故郷の加賀の国に戻るころにはかなりの身重であったらしい。ゆえに京都の祇王寺に仏御前の墓はない。



◆仏御前の晩年〜悲劇の治承4年8月18日
残念ながら帰国途中で出産した本来であれば清盛の九男になったであろう男の子は死産、または難産ゆえの衰弱死であったと伝わる。


そのままふるさとに帰国した仏御前は故郷のために活動することになった。それは仏御前の夢でもあった。京都で名をあげたヒロインの仏御前はたちまち人気者になった。それが仏御前の悲劇的な最後の原因とされる。


その話は以下のブログにくわしい。
『平家物語』と仏御前の後日譚 あなたの希望に光を/ウェブリブログ
http://jama103dajo.at.webry.info/201004/article_1.html

 しかし、この話の最初にも述べたように、仏御前が嵯峨野の往生院(現在の祇王寺)で、往生を遂げたというのであれば、加賀の原町に伝わるあまりにも痛ましい美女の後日譚はどうなるのか。少し続けて記してみます。

(略)

 原の里に帰った仏御前は草庵をむすび、念仏にあけくれることになった。しかし、清盛の愛人であった都一の白拍子が帰ってきたというわけで、騒ぎだしたのは村の男たちでした。男たちは法文咄を聴くといっては日夜仏御前のもとに集まってきたのでした。
 これをみて心穏やかでないのは嫉妬にかられたのは女房たちでした。彼女たちは互いに談合し、ついに仏御前を裏山に誘い出して機の杼で殺してしまったのです。以後、原の人々は仏御前の祟りを恐れ、村の女が出産するときには窓という窓を閉めきった暗室でするのが習わしであるといいます。

 原町には伝承をまとめた山本清嗣・藤島秀隆両氏著の『仏御前』(北国出版社)があります。それによると藩政時代、約二百年にわる十余の史料が、仏御前のことを書きとめてあるといいいます。
 今、この史料によって先に記した伝承を見ると、原村の人々は先祖のこの行為を恥じ、訊ねても否定するのが常であるけれども、近隣の村々は仏御前殺害の口承を語り伝えており、原村には仏御前の草庵跡(午前様屋敷)が残っているほか、村所有の山林には、仏御前の「祝ひこめたる宮」なる墓があります。 そして現在、仏御前の木像をはじめ仏御前に関わる霊宝の数々は、みな、土地の人々の手に帰している、という。


岩本の伝説・昔話ということで「ハラカゼ」というものがあるらしい。
http://www.jaist.ac.jp/ks/labs/sugiyama/introduction/k-koseki/web-tatsunokuchi/t_s/table/trad/densetsu/d_iwamoto.htm

春先,小松の方から吹いてくる風を,みんな「ハラカゼ」とか,「ハラのボンボ風」というとるが,その理由にこんな話がある。
小松の軽海の近くに原村があり,そこに仏御前という美しい女がいた。仏御前は,平清盛の寵愛を受けて結構な身分になったが,仏門に入って小松へ
帰ってきた。そこで仏御前は居酒屋を開いた。金はようけもっておるし,別にもうけるという気はないし,男達に山菜料理をつくり,安く酒を飲ませてやった。男達はそれを楽しみによう働き,夜になるとはみんな居酒屋へ集まってきた。仏御前は,清盛の寵愛を受けたほどの女であり,器量もよかったし,男達は家へ帰るのも忘れて,酌をしてもらって飲んでいた。そのうち村の女達ぁ,「おのれ,あの女が来てから家のおやじゃ夜帰らんと,酒くろうておる」というて,嫉妬やら何やらで,「あの女さえおらんな」ということになった。ある晩,村の女達は,ついに仏御前を殺した。それからその日の近くになると,怨念が風となって吹くがや。その風は,「のろいの風」ともいわれ,「何のがに殺されんなんがや,他人様のためにと思って自分の金だしてお酒を飲ませたがに,あだにとってしもて」という仏御前のうらみを含んだ風やそうや(岩本・山本孝一)


要するに仏御前に嫉妬した村の女房たちのリンチ殺人によって仏御前は落命した、というのだ。これがタイトルの理由である。


仏御前の死を知った祇王の家族はその死をいたみ、プロマイドがわりの「例の像」をふるさとに送った。その像は村人に大切にされ、いまでも見ることができる。


現在、仏御前の生家のあった大野はダムのそこにしずみ、草庵のあったところがいまでもまつられている。原町、仏御前の里である。墓はそこにある。
仏御前物語/義経伝説 - 南加賀周遊 -
http://www.minamikaga.com/yoshitsune/mono_hoto.html


 さて、この話に違和感を感じて書いてみたくなったのが、ブログの本題である。


「男前仏御前の死に様があまりに矮小化されすぎている気がする。」
なんか重大な真実が隠れていないだろうか。


だいたいすべてをしてて仏道の道へ、とはいえ、仏御前は小松市ではかなり身分の高い家の人間である。少なくとも実家である白河家は頼朝と出会う前の北条政子の実家ぐらいの力はあるだろう。女性同士のはでなけんかで有名な北条政子のケースでも政子が直接手をくだしたわけではない。仏御前がいくらオープンな性格でいわゆる「居酒屋経営」のようなオープンな行動をとったからといって、女性同士が直接肉弾戦になる事態はかんがえにくい。すくなくとも仏御前のキャラクター、価値観からして女性の嫉妬憎しみの挑発にはのらないだろう。


「女性の悋気によるリンチ事件」にしてなにかを隠したとしか思えないのだ。


世界史をみれば女性のリンチで落命した女王がひとりいる。
イスラーム世界唯一の女性スルタンとされるシャジャル・アッ=ドゥッルである。
マムルーク朝の初代君主であるが、わずか3ヶ月の支配のあと、2代目の元妻の命令で殺害された。
シャジャル・アッ=ドゥッル - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A2%E3%83%83%EF%BC%9D%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%83%E3%83%AB


このような高貴な女性が直接リンチされる事態になるとしたら、いったい何がおきたのか?


仏御前の命日にそのカギが隠されていた。「報音尼」と名乗った
彼女の命日は治承4年8月18日(1180年9月09日)。


実は前日にとある場所でとんでもない事件が起きていた。
治承4年8月17日(1180年9月08日)。


山木判官襲撃事件である。


伊豆国に流されていた義朝の三男・頼朝は以仁王の令旨を奉じて、伊豆目代山木兼隆の館を襲撃して殺害したのである。


頼朝だけではない。ほかの源氏の諸将も挙兵した。


昔は重要な交通路でもあった現在の小松市あたりがまきこまれなかったといえようか。
白河家は平家に属する家柄である。山木判官が襲撃されたように仏御前の実家も源氏勢に襲撃されたのではないか?


仏御前は平家によって白河家を繁栄させたいわゆる平家の重要なアイコンでもある。
仏御前の人徳はともあれ憎しみをかきたてるには十分だっただろう。


仏御前はほかの家族とともに山に逃げた。
しかし奮戦むなしく落命した。
人徳のあった女性を手にかけたということで源氏としては都合の悪い事件である。
だから「女性の嫉妬で殺された」ことにした。


仏御前は荼毘にふされた。


「男前」なたくましい生命力、しかしその運命はあまりにはかない、まさに彼女自身が話した「としのわかきをたのむべきにあらず。いづるいきのいるをもまつべからず。かげろふいなづまよりもなほはかなし。いつたんのえいぐわにほこつて、ごせをしらざらんことのかなしさに」をそのまま証明したような人生であった。


むしろそれゆえに17歳で出家したのは正しい選択だったのかもしれない。
残りの4年の人生はそれは充実したものであっただろうから。


おそらくこの事件の正しい事実は清盛の耳にも入っただろう。自分がかわいがった若い寵姫の悲劇的な最後には人間を大事にする清盛には身をきりさかれんばかりの強い悲しみと怒りにおそわれただろう。


平家方の人間でそのような目にあったのは山木判官、仏御前のみならずほかにもいただろう。


「葬儀などは無用。頼朝の首を我が墓前に供えよ」という清盛の最後の遺言はわかるような気がする。


嵯峨で命をおえたであろう祇女と母刀自の命日はわからなかった。たしか母刀自は意外に長生きだったような気がする。御白河法皇の持仏堂であった長講堂の過去帳には「祇王・祇女・仏・刀自」の名が残っているとの話である。


やがて清盛も倒れ、平家も滅亡した。そして一連の政治的配慮などから真実はわからない。平家物語は昔は「治承物語」といったが、後年平知盛の妻らがリベンジをはたしたときに「平家物語」と改められたとの話である。そしてその「平家物語」によって「祇王・祇女・仏・刀自」の4人の物語は今も語りづがれているのである。


(終わり)