あの日同じ空を飛んでいた…日航機123便墜落事故

自伝には軽く書いたあのことをいつかきちんとかいてみよう、とずっと思っていた。あの事故、1985年8月12日に起こった日本を震撼させた事故のことである。おそらくあの事故が私の哲学に影響を与えていることは間違いない。あの日以来、私の死生観ががらりと変わってしまったからである。もともと「生と死」に執着する傾向の強い私であったが、あの事故がそれをもっと強化することになったからだ。


 あの事故とは「日航123便墜落事故」のことである。あの事故があるまでは人は意思力さえ強くもって努力すればどんな「難問」も乗り越えられると信じていた。「生死」の問題すらも乗り越えられると信じていた。しかしそれは違った。あの日に私が知ったのは「人間は肉体の有限性から自由になれない」という事実である。人間の肉体とはあまりにもろく、個人の努力や意思だけでは人間は命すらも保つことができない生き物であるとはじめて理解した。それ以来、障害者教育などでいわれる観念的な理想をまったく信じることができなくなった。「純粋に願い、ひたむきに努力すること」のむなしさを知った。その代わり根拠のある技術力、理論、そして結果のでるスキルを求めた。


 1985年8月12日の同時刻、私は「空」の上にいた。その後、飛行機はたくさんのったがあの日の飛行機の窓からみた空、茜色にそまった空に紫の雲がたなびく空、あの空を今でも忘れることがない。生まれて二度目の飛行機で岡山から東京−羽田の一人旅であった。11歳の誕生日を迎えたばかりであった。伯父が日本航空パイロットだった関係もあって「鶴のマーク」の日本航空に乗りたいと父にいったが、そのころは日本航空は岡山に飛んでおらず、全日空だけであった。日本航空がもっていたように全日空も「こどもの一人旅」をサポートするシステムをもっていた。私のほかに一組の姉弟がそのシステムを利用していたことは覚えている。帰りは私も先にいっている弟と二人で飛行機で帰るはずだった。


 羽田についたときは空港はまったく平常どおりだった。先に迎えにきていた祖父につれられて本家にいったときもいつもとかわらず平和だったはずだ。しかし、空の旅の疲れから一晩寝て起きてみると事態は違っていた。


 あのとき伯父と何を話したかも覚えていない。しかし墜落現場の遺体の凄惨さに関する情報はたくさん入ってきた。その状態を知ることで私は「生きて帰りたい」という犠牲者の気持ちのほうがつらいと感じるようになっていた。遺族の方にもみつけてもらえない肉片になっても「生きる」ことをその肉体が切望していたとするならばそれほど残酷なことはない。それをかなえてやれない無力さのほうがつらい。あのとき現場で作業していた方々の中でそう感じた人は多かったかもしれない。「希望」を持つということすらそこまでの残酷さをもつということを知った。


 「いい人」だったら生き残れるのか。「悪い人」は因果応報で死ぬのか。そういう単純な二元論もまったく通用しない世界が今自分が人間として存在している世界なのだ。では何が生死を分けたのか。当時私はいじめを受けていて「自殺」を考えるまで追いつめられていた。いじめをうけるのは「何か『悪いことを自分がしているからだ』」と当時考えていた。でも「何が悪いのか」わからなかった。「おもしろいからからかうためのいじめ」という概念はまったく知らなかった。だから「死んで罰をうける」のが当然と考えていた。それなのに「死ななければならぬ」自分が生きていて、「死んではいけない」いい人たちがなぜあんな地獄のような死に方を迎えないといけないのか。その当時の人間観ではまったくそのなぞは解けなかった。


 ただひとつだけ「わかった」のは、人の運命が人間が考える単純な二元論ではとけない世界にあるということだ。人間の考える「善悪」を超えたところにある法則で人の生死が決まる。それを識別できる唯一のルールは人為的な「まじめさ」「努力」を超えたところにあるルール、つまり「本能レベルの生存欲」である。そう感じた。人の生死を決定づけるのは「生存欲にもとづく『危機』をかぎわける力」と「『危機』を解決するためのスキル」と「『危機』を未然にふせぐためのシステム」である、と。


 「『危機』を未然にふせぐためのシステム」はそのシステムを開発・運用する側の責任である。飛行機をはじめ、列車も高速道路などあらゆる社会のインフラに係わる人間達の仕事への忠誠心や誇り、努力に依存する。これは個人ではある意味どうにもできない。しかし、「生存欲にもとづく『危機』をかぎわける力」と「『危機』を解決するためのスキル」、このふたつは逆に周囲やシステムに依存していたのでは身につかない。これは個人の努力に依存する。この3つがうまく機能していれば、「安全に生存」する可能性が強くなる。あとは個人の「運を呼び込む強さ」だ。


 そう思ったから「障害」に依存することはやめた。いくら「障害」をもっていようが、このリスクは「平等」であることに気が付いたからだ。「障害」を誰かに助けてもらいなさい的な指導をする教育に不信感をいだくようになった。


 今年は日航123便墜落事故から20年の年であった。そのことに8月の再現ドラマで知った。11歳の子供が31歳になったことさえ忘れていた。この事故のことを4月におきたJR西日本脱線事故よりも最近のことのように思い出して苦しかった。それだけ自分にとって忘れられない事故なんだと思った。


 あらたな憤りを感じたシーンもあった。高濱機長のボイスレコーダーの書き起こしの記事をみて機長に非難が殺到したという現実に、である。実は当時、私自身は「機長は最後の最後まであきらめないで信念をもってがんばったんだ」という印象をもった。だから遺体が発見されたと報道されたとき、「よくぎりぎりまでがんばった」という気持ちで手をあわせた。


 しかし、あのドラマで当時機長に非難が集まり「人殺し」といわれ、遺族の方がつらい思いをされていたことを知ってかなりショックを受けた。「プロとして最大限の努力をした」、11歳の言葉にハンデをもつ子供でもわかるこのことがなぜ健聴者である大人の人がわからないのだ、と強い怒りを感じた。20年前のそのころから人の心はそこまで貧しくなっていたのか、とも感じた。いじめられていたあのころの人間不信の気持ちが再びわいた。


 「プロとして最大限の努力をした」という理解は実は伯父を通して「機長」の精神を「当たり前」のものとしてみていたせいでできたことなのかもしれない。いづれにしても私がドラマを通して感じたあの怒りと悲しみを身近な関係者はもっと感じていたはずで、その気持ちを20年たって知る人も少なくなったあの事故のなぞを解明しようという原動力にかえているのだろう。


 今、私の手元に一冊の本がある。2005年の7月にだされた「御巣鷹の謎を追う」(宝島社)である。

[rakuten:book:11466934:detail]

 でも、まだ一度も開いていない。けれどもきちんと読んで理解するつもりだ。私はあの日空に居合わせただけでまったくの「部外者」だ、と思っていた。ほかにもこの事故に関してはいろいろある。こうした事情からこの事故に深入りするのは「遺族に対して失礼なことだ」という思いがあった。「無関係だ」という顔をすることが遺族に対する礼儀だと思っていた。けれども、今でもあらゆる形で「慰霊祭」がおこなわれていることを知った。墜落現場が「慰霊の園」として整備されていることも知った。そして、この事故を「忘れてはいけない」とする関係者の気持ちも。


 20年たった今でも私の気持ちは落ち着いていない。「感受性が変に強すぎる」「感情移入しすぎ」と思う奴は思えばいい。今はまだ心も体も落ち着いていない。けれどもきちんと落ち着いたら上野村にいってみようと思う。