正業をもて、謙虚であれ、
伊東聰がかならず、人につたえるアドバイスのベースになるものであるが、なぜか理解されないことが多い。
なのでいつか「言語化」しようと思っていた。
通夜の泊まり番のときに弟と世をあかしながら伝えた言葉もやはりこれであった。
なにごともうまくいかないのはやはりこのふたつのどこかにゆがみがある場合がほとんどだし、
なにごともうまくいく人はやはりこのふたつを理解して実行している人である。
「正業をもて」
ある人にそれをつたえたら、逆切れされた。
ある人につたえたら、「僕が正社員になれるわけないじゃないか!」と誤解された。
正業は正社員になることではない。
「社会で容認されている、まともな職業。堅気の商売」という意味だ。
尊敬される商売ともいえる。
私的には「自らの衣食住をささえ、自らの生き方をささえる仕事」という意味に理解している。
だから正社員でなくてもいい、月10万しかかせげなくていい、自分のできる範囲でできる仕事をすればいい。
パワーが違うので「就職」という形をとるのが理想だが、そうでなくてもいい。
「自分の心身を生かすために」、だ。
そのベースがあってこそはじめて社会に対してものがいえる。
逆にいえばそのベースがなければ、いくら美しく完璧な理論的にとおる考えであったとしても、人に話をきいてもらえない。
本当に伝えたいことをひどく曲解されてしまうことのほうが多い。
実際にその立場になったら実践できない机上の空論であることが多い。
やはり人間は社会・環境に育てられる面が大きい。
社会・環境が人を選ぶことが多い。
社会・環境をつくるのはやはり一生のほどんどを費やす「正業」だろう。
迷ったとき、苦しいとき、やはり無心に「正業」に心ついやせば心が癒される。
「正業」に専念することで人生観・人間観・哲学も養われる。
「正業」にまい進することで社会へのかかわり方、動かし方もわかる。
「正業」をもっていない人がどんなに社会活動をしてもそれは社会を改革する力にはなりえない。
どれだけ真剣にやっていても「ただのおあそび」と解釈されてしまう。
「ただのおあそび」と解釈されているときの苦しみは並大抵のことではなく、
それを耐え忍ぶ体力・精神力がいる。しかも「終わりがみえない膨大な時間と費用」が必要である。
「正業」で生活するバックボーンがささえられていなければ簡単に折れてしまう。
援助者、支援者がいればましだが、たいていの場合はそれが得られない。
得られなければどうすればいいか。「正業」で自分自身を支えるしかない。
それができると社会活動自体もやりやすくなる。
問題は「自分の正業」とは何か、だ。たしかにそれをえられれば苦労しない。
私の正業は何か?と問われるとうまく答えられない。
II業はたしかに生活を支える職業であるが、正業なのか?でも今のところ、「正業」だろう。
社会貢献活動等で私にしかできない優先すべき項目があれば仕事を調整して駆けつけるが、
基本は受けた仕事に穴を開けないように努力する。
言葉でいうのは簡単だがしんどいときがある。でもそのなかでノウハウもうまれる。価値観も生まれる。
やはり大切だ。
「謙虚であれ」
これも理解できない人が多くてびっくりした。おかげでそれをいった私自身もわけがわからなくなった。
「謙虚」ってなに?なんだっけ?
「謙虚であれ」 = 自分を捨てる、卑屈になる、言いなりになる、YESマンになる、と解釈する人がほとんどだった。
そのためにこれも「きれられた」。
「せっかく自分らしく生きられるようになったのに、『謙虚であれ』?ふざけるな!。」と。
そして「自分のことだけしか考えない」行動を起こし、信頼を失い、自分らしく生きにくくなってしまう。
控え目、つつましいこと。すなおに相手の意見などを受け入れること。
つまり「足りないことを知る」ということだろう。
謙虚の反対は何か?「傲慢」である。おごりたかぶって人を見くだすこと。
要は自分が正しいと「多様性を認めない」ことだろう。
「多様性を認める社会」をめざすのであれば「謙虚さ」は必要なのである。
で、なければおもわぬところで、人を切り捨てることになる。
実際口やうたい文句では「多様性」を認めるといいながら、行動は「自分を認めて」の活動家が圧倒的に多い。
「多様性」をいいいながら、「多様性」切り捨てているじゃん、と指摘してもそれが理解できない。
多様性を認めて柔軟な考えを身に着けるためには「謙虚」さは必要なのである。
自分を捨てているように感じるかもしれないが、逆に自分をきちんと伝えることができていれば
自分らしさをみがくには一番最適な情報が手にはいる。本当は、身に着けていると「おいしい」心がけなのであるが。
ただ、「難しい」こともある。自分が足りないことを知っていて、
ただいろいろな事情で「弱みを見せる」」ことが危険な環境に生きていた場合、
「自分の心身を守るため」につっぱっていることがある。
それが背景を理解できない人には「傲慢」に見えてしまうことのほうが多い。
「謙虚であれ」が理解できないのではない、「謙虚」というのが「危険」と理解されて受け入れがたい場合もあるのだということだ。
特に「否定」されつづけて生きてきた人には非常に理解するのは難しい概念だとはたしかに思う。
結論としては「謙虚さ」と「卑屈」の区別がつけばなんてことはないのだけど。
活動家にとって重要なこと、「正業をもて、謙虚であれ」。いうはやすし、行うはかたし、でも、いいつづけていこう。