「かたち」をととのえるということ


昨日7日、父のいとこのM伯父に弟のメンター、をお願いした。


かねてから非常に気になっていたことだ。メンター(Mentor)とは、良き助言者、指導者、顧問という意味で先輩社員や上司を指導者として、業務上の問題点のみならず、職業人としてのマナーなどについても指導を受ける。


通夜、葬式には親戚のごたごたがあって当たり前なのかどうかは知らないけれど、5日、6日は非常に疲れた。
本日友人が都心でさそってくれたが、さすがに元気がないため、ざんねんだけど今回は遠慮した。


通夜で伊東聰一家が久しぶりに顔をあわせたら、伊東家の今後について話したら朝3時までけんか。また勘当だ、絶縁だ、のさわぎに。


葬式は無事に送り出して、6日は爆睡。


昨日は父と葬式後の金銭的なうちあわせとご焼香にいって結論的には「先にいうことがあるだろう」ということで本家の党首(父の兄)、つまり今回の葬儀の喪主のあまりの侮辱的発言に心頭、本当は夕食をごちそうになるはずだったけど、すぐ席をたち、帰宅の徒につく。


遺影を準備したのは私だ。遺影等については祖母の意向があるから「やらせてくれ」といったのだけど、伯父は「やらせてやった」みたいな人をこばかにした思いがあるわけだ。でなければ侮辱するような発言がでるわけがない。「ありがとう」が『先』だろう!細かい「カチン」が多くて我慢していたのだけど、あまり怒らないとおもわれる自分であるが、さすがに「許さん!」と思ったね。


二度と会うもんか、と思ったが49日どうしよう。


深夜バスで戻り、通夜、葬式にまにあわせようとあと10分で郵便局がしまるので走り書きで書いた封筒をだしたのが問題だったといえば問題だったかもしれないがいうべき言葉の時と場合を考えろよ。


伯父は人の上に立てる人間ではない、とこれで判断した。ああ、せっかく朝気持ちよかったのに気分を悪くしたよ。


帰り道にひらめいて、「M伯父さんところへ行きたい」といい、いきなりアポなしで押しかける。


偶然なのか、M伯父のほうでも思うことがあったらしく、突然の訪問を歓迎してくれた。


「俺にいわせりゃどっちもどっちだ!。いわせてもらうけどな…。」ということで父の不手際に関してはガツンといってくれた。「M伯父なら弟の気持ちを理解してくれる。」私が思っていたことをすべていってくれた。うれしかった。ほっとした。腹はすんだ。通夜のとまりで聞いた弟の言葉。


「何が正しくて間違っているのか、わからなくなってきた。俺が間違っているのか…。」


弟の願いはひとつ。イエや面子だけでない、人間としてのつきあいのできる伊東家をめざしたいということ。
人に「ありがとう」や「お世話になっています」を絶対にいわない生活をすることにプライドかけている。
そんなプライドが高すぎる伊東一族をなんとかしたい。でもそれが理解されない。


本家をついでくれ、いや、伊東家を勘当する、で振り回される弟の強い気鬱もいたいほどわかる。


M伯父はいう。大事なことは「かたちをととのえるということ」。


結局今回の祖母の葬儀では伊東家は何もできていないのだ。重要な人と人のつながりに関してはM伯父がすべてしきったそうだ。もちろん本家の伯父に対しては「何をしでかすかわからない」という強い不安を私は感じていた。「M伯父さんにサポートをお願いしたい」と父にたのんだぐらいだ。


しかし、肝心の私父母が通夜に遅刻ではいくら母の仕事があったとはいえ、介護のほとんどを父がやっていた美徳も客観的にみたら「パア」になる。岡山からかけつけたわけだけど、広島の大叔父が間に合っているのだから「いいわけ」にはならない。しかも駆けつけた祖母の三男夫婦が普段着では礼を失したことになる。そういうところから人間関係のほころびが生まれる。私と弟二人は両親のことをはがゆい思いでいらいらしながら見ていたわけで、しかしそれを指摘しても「しかたがない、だって…」、理解してくれない。不毛である。


「かたちをととのえること」。他人から見たらどのようにうけとられるかを理解すること。その上で自分の行動を決める。自分の中で論理的に正しいから、で行動することは社会では通用しない。だれかがした失敗で関係者全体の印象が悪くなる。私が侮辱された背景には母の失態があると思う。しかし母の失態の原因は父にある。「かたちをととのえること」を甘く考えて本家の伯父に甘えていた父の失態だ。


やるべきことをやっていればどのような行動をとっても後ろ指はさされない。やるべきことをやらなければ何をやっても評価されない。


しかし難しいよね…。そのようなことをいって言葉が通じる人間がいて、言葉が通じない人間がいる。


32歳で年功序列の社会でものをいうのは困難が大きすぎる。ものすごくしんどくて疲れた。年長の人を尊敬し、敬意を払うのは人間としてあるべき姿ではあるが、そのためにはやはり年長の人がそれに値する行動、かたちをととのえないといけないことだし、また年少の人がフォローにかけまわって、気をもむようなことをする、というのはどうか、と思う。