トランスジェンダー医療の理想と現実


 私の理想から考えると基本的にトランスジェンダー医療の発展を願っている。もちろん典型的なGIDだけでなく、いろいろな考えをもつ、特に普段は医療の助けを必要としない「自己実現」の意味のトランスジェンダーがアクセスしやすい医療も必要である。



その動機は私のトランスジェンダーの友人たちの存在が大きい。
たとえばたまに記事を紹介する三橋先生もその一人である。



この問題を考えるに一番に思う浮かぶ私の知り合いは田中玲さんである。「トランスジェンダー医療」と「DVの問題」といえば彼がまっさきにうかぶ。彼の著書、「トランスジェンダーフェミニズムインパクト出版会にはその闘病について書いてある。彼のOUTPUTしてくれた経験を考えると「トランスジェンダー医療」の切実さは十分に理解できるし、なんとかしたいと思う。GIDが理解されても「トランスジェンダー」が「医療」からほうりだされる危機というのはまだのこっているのだから。



伊東聰と田中玲さんだと思想やジェンダーのあり方等についてはあきらかに違うものをもっているので、「えっ?」と思う人も多いと思うが、世の中には果たさないといけない課題は多いものである。相違をきちんとみとめあったうえで協力できることを協力し合う、これが私のスタンスである。



結果をだしたい私は「現実」を考える。



「戦略」が非常にまずすぎる。これでは、「トランスジェンダー医療」の発展の応援などできない。



当のトランスジェンダージェンダーアウトサイダーが「トランスジェンダー医療」の可能性をつんでいるとしかおもえない、という事件が多くて閉口している。



ことをおこしているのは一部の当事者でかげにはおもいわぬ多数のトランスジェンダーがいると理解しているが、あまりにもさわぎたてるため、結果的に「トランスジェンダー医療」は危険だ、と判断して医療機関が手をひいてしまうのだ。医療のリスクは非常に高い。だから医者も非常に覚悟して「トランスジェンダー医療」にあたる。恩をあだでかえすようなトランスジェンダーがおおければ結果的に「トランスジェンダー医療」は閉ざされてしまう。当のトランスジェンダーは「トランスジェンダー医療」の発展のためと考えているが「戦略」と「方法」と「手段」が間違っている。必要なのは医師とじっくり話し合ってともに解決方法をさぐる空気をつくることで、「トランスジェンダー医療」をみとめない医師や施設が悪い!ときてしまえば医者だって人間だし、医療機関だって人間のつくった組織である。びびって、二度と手をださなくなるだろう。実際そういう例のほうが圧倒的に多い。



たとえば産婦人科や小児科が激減しているのは医療事故と医療訴訟が多すぎるせいである。またあるGID当事者が恩があるはずの某医師の生活を破壊した。ある聴覚障害者が権利を主張しすぎてその大学は次の年から聴覚障害者の入学を拒否し始めた。GID当事者のトラブルが多くてGID当事者の診療をやめた医療機関もある。



私自身も「内摘だけしたい」といってきたジェンダーアウトサイダーの人に結果的にさかうらみされた。すべてのジェンダーアウトサイダーがそうとはいわないが、もう二度とジェンダーの変わった人と医療関係の相談でかかわりたくない。またその人がかかわった医療機関も二度とそのタイプのひとをあつかわないだろう。私自身の長年つちかってきた人脈もなくしそうで本当にやばかったと思う。人間は一度の失敗でそのように学習してしまうのである。「トランスジェンダーは精神的に危険な人物だから医療ではなるべくさけよう」。実際にはやばい「トランスジェンダー」は減ってきているが、理解できない「正体不明のトランスジェンダー」は増えているようだ。だからはじめから警戒してかかわらない人も多い。これではジェンダーアウトサイダーの当事者が医療情報をえられにくくなる原因にもなるため、やはり「トランスジェンダー医療」の後退につながる。



なぜそんな展開になるのか。



これは同じく先輩格の人より。



「夢見る夢男くんが多い。」つまり、理想と現実の体感温度の差が大きすぎる、というわけである。



しかも私に関しては重大な視点を忘れていた。そのことが私の「トランスジェンダー医療」に関して感じた違和感であった。



私自身が医療事故の経験者であり、母も医療過誤が原因で命を落としかけた。父の恩師はありえない診断ミスで命を落とした。かつ私は難聴という医療事故の後遺障害やぜんそくによる発作などの対応で家族もろとも「医療」にひどい目にあう人生を送ってきている。そのため自分の思うようにならない体をなんとかしようと医療関係、教育関係、食品学、内分泌学、代替医療東洋医学など研究、調査してきている。しかも趣味で軍事的な人体実験や研究などの本にも親しんでいる。だからたま〜にアーユルベーダーの記事はあるし、私の自身の体で変な人体実験(たとえば徹底した塩抜き食事)やって「体調不良」なんてなっていたりするのだ。神経質なまでに「何をたべるか」にもこだわるのもそのためだ。しかも食品で体調が変化することも体感でわかる。その中で身体の可能性や限界をいやというほどたたきこんでいる。これはまずぜんそくをなんとかしようとおもった12歳のころからである。つまり20年以上つきあいにくい体とむきあって「あーだこーだ」とやっていたのである。ところがその私自身の事実をすっかりわすれていて、「GID治療をするのなら知っていて当たり前だ」と考えていたのである。



実際は逆である。「GID治療をするのにまったく知らないのである」。



もうひとつ問題がある。「医療を絶対視してしまうことだ」。「医療の専門である医者のいうことだから全面的に信じましょう」となるのだ。生まれたときから医療に翻弄された私にとって「医療は安全で絶対的なもの」では決してない。だからこそ、医療をうける私自身が医療そのものを勉強する必要があるのだ。それは「聴覚障害」も同様だ。がん治療も喘息治療も同じこと。「医療」が人間の手でおこなわれる以上、完璧なものはないのである。



そもそも「安全な医療」という言葉が矛盾している。「安全な医療」など人類の歴史始まって以来現代にいたるまでまったく存在しないのだ。はじめから「安全な医療」などまったくなかったのである。あるのは常にリスクである。だからリスクをしりつつも「信頼できる医療」であることが重要である。「信頼できる医療」かどうかは自分で判断して決定しないといけない。患者に必要なのは「信頼できる医療」かどうかをみわける力である。「安全な医療」と過信して依存して思うようにならなかったから、さかうらみ、というのでは「甘えている」といわれて当然だろう。



問題がおきたときは問題を解決する力が必要だし、専門家の知恵を借りる、一緒に納得いくまで話し合う。解決方法を探る。
その地道な積み重ねがあってこそ、はじめて医療は成功するのである。



それを「常識」だと思っていた。



ところがGID当事者の多くが医療の限界を知るのはホルモン療法であったり、胸オペだったりする。そのときにはじめて「理想と現実」のギャップに気がつくのである。


メスをいれてもそれだけでは「理想の男性の体」にならないことを。GID当事者の場合、その限界を受容して次のステップへこまをすすめる。



ところが「トランスジェンダー」の場合は「現実の受容」に対して違いがでてくる。「自己実現」がベースの「トランスジェンダー」は現実の過酷さにショックをうけるのである。その状況は当事者から可能な限りの医療情報をあつめたGID当事者にとっては「当たり前」となった悲劇である。ところが理想のジェンダーの体をめざしていた場合、自分の理想と違った結果をうけとめきれなくてパニックになる。そして問題行動につながって、最終的に「トランスジェンダー医療」の芽をつんでしまうのだ。



パニックになった当事者はGID当事者からは二重の非難をうける。「トランスジェンダー医療」の芽をつんだことと、「自分の理想を追い求めた」医療の現実の過酷さを知らない甘さに対して。つまり、戦場にいくのに戦場の現実をしらないで旅行へ行く感覚で戦場にとびこんだ、と解釈されるのである。平和なところがいきなり戦場になってまきこまれたのであれば、悲劇に同情はするが、「戦場」なのに「戦場」としらずにとびこんだのであれば同情の余地はない。つまりトランスジェンダーは医療を「平和な国」と思い、GID当事者は医療を「戦場」と思う。これほどの激しい医療に対する意識のギャップがあるのである。



結果的に医療の現実を知るほかの当事者たちの精神的心理的サポートすらうけにくい状態になる。そもそもジェンダーアウトサイダーだと先にのべたようにもともとほかの当事者の医療情報を得にくい状況にあるため、この問題は実は「トランスジェンダー医療」が成立しにくい無限のスパイラルになっている。



とにかく「自分をすくえるのは自分しかいない。自分の専門家は自分しかなれない」そこからはじめないと「トランスジェンダー医療」の夜明けは遠いだろう。



ちなみに医療事故に関する私の気持ちは「難聴に関して、自分をのろいこそしたが、医師をうらんだことは一度もないし、訴訟もしていない。むしろ、影響を最小限にとどめようとしてくれた。そしてその失敗を教訓に弟は五体満足の健康体にうまれてきた。そのことに非常に感謝している。」



だいじなのは問題がおきたときにどのように対処するかであろう。現在の多すぎる医療訴訟の大半はこの心げけで激減する気がする。



要は気持ちの問題なのだ。