健常者からみた聴覚障害者

「敵(健常者)の真の性質を知る」ということで障害者系のJOBサイトに登録してみる。


担当:「障害者手帳」はないですか?


障害者手帳はぎりぎり取得できない旨を伝える。
実は2度6級取得を試みたことがある。
4歳のときと成人してから。


唯一障害のない音域があるため、取得できないとのことだった。


「健聴者からみた聴覚障害者を知りたい」。
そのために健聴者のアドバイザーの意見が知りたいと伝えたら、そのような相談業務は行っていないとのこと。しかし、「障害者職業センター」なるものが各自治体にあることを教えてもらった。


自分のすむ自治体にもあった。
早速電話をかけてみた。


「健聴者からみた聴覚障害者を知りたい」。
その理由はこの不況のため、今までの面接のやり方では職を得ることができないからだ。


今までは「できる/できない」を明確にして、「できない」には理由を提示する。
その上で「こうすればできる」を提示する。
つまり「できない」をいうのではなくて解決方法を提示する。
コンサルティングの手法のひとつだ。


ところが今の現状は「できない」といってしまうと相手が「不安を感じる」ため、仕事が得られない。


そのため、「できる」「未経験ではあるが未知識でない」をアピールすることがポイントだ。
だが、ここで大きな問題がひとつある。


このとき判断/現実検討が難しいのが「聴覚障害」の問題だ。
聴覚障害者は一般的に「気難しい」というイメージがある。
それも敬遠される原因だ。


「なぜか」。


「あうん」の呼吸が通用しないからだ。
「言葉」ひとつひとつをいちいち確認するか、もしくは意図を勘違いして理解するか。


それは氷山の一角だ。


やはりコミュニケーションに障害をもつ聴覚障害者ほど難しいものはない。


それだったら言葉の通じる他の障害者を雇ったほうがよほどいいだろう。


さらに聴覚障害者の障害のややこしさというのは、
「いつ障害をもったか」ということと、
「いつ発覚したか」ということ、
そして「どのような環境で育ったか」の3つによってさらに性格が変わってくる多様性を持っている。


私の場合は誕生時の障害であり、4歳で発覚。
このことは「健聴者がわかりません」ということと、
「聞く」の臨界期を越えている、ということを意味する。
そのため、健聴者に対して「理想化」がかなりある。


たとえば戦国の大河ドラマやロボットアニメ、SFアニメのように
「すべての健聴者はリーダーが一声かけると、そのリーダーの意図を瞬時につかみ、一体化して動ける」
と思っていた。
その原点には幼稚園での先生の声にテレパシーをうけたようにそろって動ける他の幼稚園児、という忘れがたいトラウマがある。(つまり自分だけ先生のいうことがわからなかった。)


生まれて4歳まで聞こえないハンデを視覚でカバーしたため、「視覚情報」に頼るくせがある。
そして4歳から8歳まで特別支援教育を受け、9歳で普通学級へ、そして母の方針で他の聴覚障害の友人との接触を禁じられた。


そのために「健聴者でもない、聴覚障害者でもない」という非常に不安定なアイデンティティを持っている。
高校までは「自分が健聴者なのか/障害者なのか?」となやんで無理を重ねて補聴器もつかわず健聴者らしく演じてきたが、高校のときに「自分に必要なことを求める」という知恵をつけて、今に至る。


これがろう学校で他者との交流を知る人、またはじめから聴覚障害者のいない環境で育つとまた変わってくる。


けれども元健聴者の中途失調者でないと健聴者はわからない。


健聴者(雇用経験のある)の聴覚障害者像がわかれば求人の検討/面接の戦略を自分でたてることができる。


こうすれば解決という「答え」を得ることができなかった。
だが、興味深い成果を得ることができた。

■1.「聴覚障害者」の第一印象
「できる人」というイメージを与える。


これにはびっくりした。実はリーダー研修を受けたときの私の第一印象もそれなのだ。
これが聴覚障害者全般にいえるとは。

●さとしの考察その1
井の中の蛙、大海を知らず」で、本人の世界観の中では「できる/知っている」ので自信をもって答えてしまう。(だれかと比べて「これは知らないかも」と感じる機会がないからだろう。)


●さとしの考察その2
「できる」というより「マニアック」といったほうがいいかもしれない。
通常、理想的なビジネスセンスとしての知識のあり方というものは「広く/深く」でT字のようにバランスがとれていればよいのだが、聴覚障害者の知識は「狭く/深い」のだ。つまり本人の世界にないものはまったく「無知」になってしまうからだ。これが「耳学問」がない、ということの最大の欠点だ。
また、「マニアック」な世界を語るときも非常に小さなところから話し始めてしまう。
「ささいなことにこだわる」みたいな?


■2.ところが職務遂行上のコミュニケーションで誤解が生じてトラブルが起きる

センターの方いわく、そのための仲裁が多いとのこと。
ちなみに「第三者」を介する以外の「解決手段」がないそうだ。


■3.かといって、細部を調整して話をするとただでさえ「障害者雇用」に不安を感じる健常者を不安に陥れたり。

そんな話を10分。あっけなく終わってしまいましたが。


でもひとつ大きな成果は…ですね。
「大事なのはわりきって、腹をくくる」ってことだろうな、と。


要は「障害」、というよりも「育った文化的価値観の違い」が大きいのだ。
しかもこれはどちらかというと「少数者」ゆえの問題。
今までコミュニケーション技術とかレトリックや一般的なマナーとやらにこだわってきたが、どうも問題の根本はその領域ではない。(もちろんコミュニケーション技術その他は必須であるが。)


たぶんというか実際そうだと思うが、「常識やルール」というものは職場といえどもそれぞれの文化で違うものなのだ。ところが健常者の側がそれに気がついていないで「自分が正しい」と声の大きなものの言い分を通してしまうことがある。それに聴覚障害者が口語による「効果的なけんか」ができないために「泣き寝入り」するということが多かったのではないか。


考えてみればいくつか事例に思い当たる。
業界ルールの常識として「間違っていること」を堂々と部下に言って叱責した人。
その人が「業界ルールを知らなかった」というオチなのだが、
聴覚障害だと「あれ?聞こえない部分でそんな常識があるんだ」とうのみにする危険がある。


不当解雇を食らった聴覚障害者。「誤解を解きたいが話を聞いてくれない」とパニック状態に陥っている。
だが、わかった。
相手が「話を聞かない」意図は目的が「彼を懲戒解雇においやりたいから」だからだ。
たぶん、人材整理で。懲戒解雇であれば払うべきものを払う必要がない。
ひどい話だった。
それを説明し、労働基準局へいくことをすすめたが、最後まで「彼の置かれた現実」をわかってくれない。
そんなあれこれ…。


聴覚障害者の「頑固」「融通のきかなさ」。これは「マニアックなセンスで身に着けた」最後のディフェンス(防衛)ツールなのだ。


ひとつにはダイナミック(動的)に変動する人間のあいまいなルール運用に耳学問のできない聴覚障害者はふりまわされ、弱者としておとしめられる。それに対抗するために原理原則、大義になるようなスタティック(静的)なルールを求める。つまり悪くいえば「正論」となるようなルールだ。それは「タウヒード(一化)」という概念によってあらゆるものを包括するルールをもつイスラームにとっての聖クルアーンであったり、ハディースのように、「わかる『何か』」がほしいと思う。つまりそれは「説明」だ。


「話せばわかる」
けれどもほとんどの健常者は「話さない」。


目的の中に「わかりあう」以外の意図があればなおさらだ。


それに対して何ができるか。


まず、「仲良くする努力をする」ことだろう。
できなければ「仲が悪くならない努力をする」ことだろう。
最悪の場合は。
これが重要だ。
多くは「相手のいいなり」に受身になってしまう。
なぜなら「間違いと思うが、健聴者に従っていれば周りがうまくうごく」と思って、我慢してしまうからだ。
「自分が正しいかどうかわからない」


でもそれは間違いだ。

自分が正しいか知りたければ、
「毅然として自分にとっての『正しさ』を相手にぶつけてみること」だろう。


受け取る相手がどう判断するかは、受け取る相手に一任する。


そして努力する必要があるのは「自分の意図したとおり相手に伝わるにはどうすればいいか。」
そこをなやめばいい。そこを努力して技術を身につければいい。


そして自分が間違っているとわかれば直せばいい。
要は「わからないままあいまいに判断する」のが一番いけない。
それは結局「自分の考えに固執すること」だからだ。
「それは自分が正しい」と思っているの裏返しだ。


まあ「あんずるな、なんとかなる」は聴覚障害でもいえること。