さとしの髪長姫伝説検証 その1〜藤原宮子の「病」は何だった?


エジプト好きのさとしであるが、エジプトだけに興味があるわけではない。
日本国内の神域の癒し旅も好きで、伊勢・熊野は年1回は必ず出かける。


特に那智勝浦の那智大社は重要なスポットで基本2月にはお参りに行き、俗世のあれこれをリセットしてエネルギーをもらう。


世界遺産にも登録された熊野古道
ここはイスラームでいうところの「神の前で等しく平等」という「包容力」、「異端な人でもひきうける」エネルギーをもっている。だから「けがれ」と排斥された人々は熊野へ巡礼の旅に出る。


ところでずっと気になっていたのだが、同じような疑問をもつ人がいなさそうなので「異説」として書いてみたいなと思った話を書いてみようと思う。


ただし大学時代に養った歴史学の手法をとっているわけでないので、「読み物」として…。


■髪長姫伝説への「違和感」

JR紀勢本線紀伊田辺行きに乗る。乗り換えて道成寺駅
そこからあるけば「安珍清姫伝説」で有名な道成寺である。
ここにきたのはもうひとつのライフワークとなっている「歴史の性別越境者」を探すためであった。
元禄を代表する女形、初代芳澤あやめの足跡をたどるためであった。



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芳澤あやめ
芳澤あやめ (初代) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B3%E6%BE%A4%E3%81%82%E3%82%84%E3%82%81_(%E5%88%9D%E4%BB%A3)


道成寺からそう遠くない和歌山の中津村の生まれの芳澤あやめは自分のふるさとの題材として「京鹿子娘道成寺」を作った。


安珍清姫伝説の後日譚である。

娘道成寺 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A8%98%E9%81%93%E6%88%90%E5%AF%BA

安珍清姫

※ストーカー物語…と絵とき説法で申しておりました。
道成寺の「絵とき説法」面白いですよ♪
http://www.dojoji.com/info/info.html
http://www.dojoji.com/info/info.html

芳澤あやめについては次の機会にゆずろう。


私にはもうひとつ気になる道成寺の伝説があった。
「髪長姫伝説」である。
髪長姫=藤原宮子は「かぐや姫伝説」のモデルともいわれている。


道成寺の起源に関する伝説である。

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大宝元年(701)、文武天皇はその夫人の藤原宮子の願いを受け、道成寺
お建てになりました。宮子は、道成寺の言い伝えでは「髪長姫」とよばれる
村長の娘であったとされます。この言い伝えには賛否両論があり、色々な研
究もなされましたが、宮子の人生には今も多くの謎が残されています。
ここでは道成寺に残る『宮子姫伝記』という絵巻に従って紹介しましょう。

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○かみなが姫のものがたり
http://www.dojoji.com/kaminaga/kaminaga.html


まんが日本昔ばなし「髪長姫」

※このまんがでは両親である早鷹と渚が死んでしまうが…道成寺縁起では老いた両親を残して藤原不比等の養女になっている。


髪長姫としての宮子の概要はこうだ。

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7世紀後半九海士(くあま)の里に早鷹と渚という猟師(村長)の夫婦がいたが、40歳をすぎても子宝に恵まれなかった。神社に祈願してやっとさずかった女の子宮子は生まれたときから髪の毛が全く生えなかった。ところが母渚が海のそこから観音像を拾って、村を助けたときに髪の毛が生えるようになり、7尺余りもある見事な黒髪の美女となった。人々は彼女を髪長姫とよんだ。


あるとき宮子の抜け落ちた一本の髪が時の右大臣藤原不比等の手に渡った。それが縁となり、宮子は藤原家の養女として迎えられ、さらに持統天皇に請われ時の皇太子、後の文武天皇の后となった。聖武天皇の母である。

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○髪長姫
“¹¬Ž›(‚P)E”¯’·•P•Ò
http://www.geocities.jp/noharakamemushi/Koshaji/Nanki2/Doujouji.html


http://www.chuokai-wakayama.or.jp/wadensho/kaminagahime.htm
http://www.chuokai-wakayama.or.jp/wadensho/kaminagahime.htm

http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/amatotennou/kaminagahime.htm
http://www7a.biglobe.ne.jp/~yasui_yutaka/amatotennou/kaminagahime.htm


史実に刻まれた藤原宮子の概要はそうだ。

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藤原不比等の長女で母は賀茂比売。697年に文武天皇の夫人となり、701年に首(おびと)皇子、後の聖武天皇を出産した。しかし心的障害(うつ病といわれている)のためいわゆる「ひきこもり」状態となった。36年後、玄恕・げんぼう)によって正常な精神状態になり、聖武天皇と対面。59歳まで息子にあうことはなかった。78歳で崩御する。火葬にされ、奈良市黒髪佐保山に埋葬されたという。

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○藤原宮子
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http://www.asahi-net.or.jp/~SG2H-ymst/miyako.html

http://homepage3.nifty.com/osuzume/saho/index3.htm
http://homepage3.nifty.com/osuzume/saho/index3.htm

もちろん髪長姫の伝説も宮子のこともなぞが多く、「伝説」でしかないという考え方もあるだろう。


しかし私は「火のないところに煙は立たない」思考によってこの「伝説」から感じた「違和感」にせまってみようと思った。


髪長姫の伝説も藤原宮子の伝説・史実も真実であるならばそこにあるのは何か。


■藤原宮子の「病」は何だった?

誰もがそこにアプローチしない、疑問を感じないのか、感じても「タブー」と感じているのか。
検索をかけても「違和感」を解決する説には出会えない。
髪長姫伝説検証のタブーと思うのだが、あえて書いてみる。


「藤原宮子は藤原不比等の実子(長女)であり、息子に会えないほど長年わずらっていた『病』とはペロシア、先天性脱毛症である。うつ病は二次障害である。」


○先天性脱毛症
先天性無毛症の原因と対策 −正しい脱毛症の知識−
http://www.hair-speciality.com/central/datsumoushou_06.html


「トンデモ説」ではあるが、そのほうが論理的つじつまがあうと考えたのだ。


根本的な「違和感の発端」は髪長姫伝説に該当する「病気・障害」が存在しないことであった


生まれたときにまったく髪がなく、3歳になっても髪が生えなかった、という点で先天性脱毛症であると考えられるが、先天性脱毛症というのは現代科学をもってしても治療できない「障害」である。先天性脱毛症の少女が「7尺余りもある見事な黒髪の美女」になることは考えにくい。ここに「神の奇跡」をもってくる考え方もあるが、それは科学的ではないので保留しよう。逆に「神の奇跡」とするならば何があったのか。


日本人の文化的思考がここにからむ。
「『髪長姫』というのは忌み言葉ではないか」


○忌み言葉
忌み言葉 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BF%8C%E3%81%BF%E8%A8%80%E8%91%89


梨が「無し」に通じるから有りの実という。この考え方で「髪長姫」は「髪無姫」ではなかったか?
そうであれば医学的根拠のある話としてはつじつまがあう。
つまり宮子の奇跡というのは「本来皇室/天皇家では、異端/けがれとしてさけられるべき「髪無姫」、「異端の姫」が天皇の后になりかつ天皇の母となった」ということだろう。


女性としての最高の幸せを得た姫が「髪無姫」では当時の「社会規範」としては明らかにそぐわなかったのだろう。そのために髪無姫を髪長姫=「当時の絶世の美女の象徴」といいかえることによってその「規範」を守ろうとしたのではないか。「ハンデをもつ女性でも后になれる」という前例をさけようとした。


例外的な前例を「なきもの」にすることによって社会秩序をたもつ、という戦略は古代エジプトのハトシェプストのケース、上杉謙信女性説のケースにも該当する。また、障害をもっていたファラオがイクナトン(アメンホテプ4世)以外「五体満足」に書かれている、というのもそのあらわれである。


「秩序的社会規範保存の原則」とでもいおうか。


実は宮子の父、藤原不比等は「権力を得るための規範やぶり」を二度やったことになる。


ひとつは「先天性脱毛症の長女(藤原宮子)、すなわち『障害をもつ娘』を天皇の后にした」
もうひとつは「天皇家の血の入らない三女(藤原光明子)を皇后にした」


特に三女、藤原光明子に関しては王族以外から立后された初めての例であり、以後藤原氏の子女が皇后になる先例となった。と、同時に「天皇の男系子孫が皇位を継承する」というルールを強化する根拠にもなっている。


藤原光明子
光明皇后 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89%E6%98%8E%E7%9A%87%E5%90%8E


とんでも話ですが、次回さとしがイメージした藤原宮子の物語を書いてみます。


<つづく>