さとしの髪長姫伝説検証 その3〜宮子は「幸せ」だったのか?

髪長姫伝説でかかれる
「生まれたときにまったく髪がなく、3歳になっても髪が生えなかった」に
該当する「病気・障害」が医学的に存在しない。


先天性脱毛症を克服することは現代医学でも不可能だ。


そこで「忌み言葉」の概念を使って、髪長姫=髪無姫の「意味変換」を行い、宮子の「障害」は物理的/医学的には克服されていないと考えた。


さらに医療技術の手を借りずして、長年不妊症で悩んだ40代の夫婦に子供が生まれる可能性が低い。


そこでヒルコ伝説」の概念を使って、藤原不比等の実子に生まれたが「異形」だったために九海士の豪族に養子にやられた少女、という仮説を立てる。


さて、その後の人生どうなったか。
そしてその仮説で藤原宮子の真実、そして「藤原宮子=かぐや姫のモデル」の仮説も成立するのか。


「藤原宮子=かぐや姫」については金谷信之氏の「「かぐや姫」は藤原宮子か」が面白いのでリンクする。

○「かぐや姫」は藤原宮子か
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/kaguyahime.htm
http://www.k4.dion.ne.jp/~nobk/hime/kaguyahime.htm


かぐや姫」藤原宮子説
Model of "Kaguyahime
http://ci.nii.ac.jp/Detail/detail.do?LOCALID=ART0000486402&lang=ja


※金谷信之氏の結論部の以下の部分は重要なので抜粋

彼女を紀伊の辺里から発掘した紀麻呂(きのまろ)こそ、かぐや姫を竹の節の間から発見した竹取翁であることを見る。
 そして最後に、竹取物語の作者としては、僧玄恕・げんぼう)しか考えられないことを論ずる。


■697年、藤原宮子の周囲に「何がおきたか」

藤原宮子の生年は「不明」である。文武天皇と同年と考えると683年、「道成寺絵とき本」では680年といわれる。


680年であれば藤原不比等の子供たちの中で一番長子である可能性が高い。不比等が21歳のときの子供である。683年であれば長男である藤原武智麻呂(680)次男である藤原房前(681)は兄ということになる。すぐ下の妹、次女である同母妹の藤原長娥子については年齢差も含めて不明である。


宮子との関係上、重要な人物でいうと、元正天皇(680年)で同年代、長屋王(684)、三女光明子の異父兄橘諸兄(684)。ほぼこの時代のビッグネームは年齢が近い。


不比等の人生をざっとおさらいするとこういうことになる。


持統天皇の異母弟説もある藤原不比等は公式には藤原鎌足の次男で11歳の時、父鎌足が死去。田辺氏にひきとられて一時期田辺史と名乗っていたらしい。壬申の乱の時は数えで13歳。立場上天智天皇よりの人だったために、天武朝の時代には「人脈」がなかった。そのために下級官人から努力した。持統天皇の時代に頭角をあらわし、権力の称号より「実権」を選択、がつがつと力を得ていく。


※もしかしたら九海士は田辺氏の所領で早鷹と渚は田辺氏かも…。根拠はないが…。


690年、持統天皇不比等はある盟約を結ぶ。
草壁皇子の息子を天皇にしてくれたら、不比等の娘を入内させる」と。
草壁皇子持統天皇の息子であるが、大津皇子処刑に対する反感が原因で即位できないままこの世をさった。
そのために「せめて孫を」というわけだ。


7年後の697年に不比等の尽力により、文武天皇天皇に即位。
ところが、である。入内させる姫君がいなかったのである。


いなかった、という話をしてしまうと「じゃあ次女の長娥子は?」となるのだけど和銅年間、708年以後に長屋王と結婚しているところをみるとまだ結婚できる年齢ではなかったのだろう。婚姻関係で権力を固めるチャンスなのにこればかりはどうにもならない。たぶん文武天皇天皇に即位するのが不比等の予想外に「早すぎたのでないか?」と私個人は思う。


そのとき紀麻呂が不比等にささやいた。「宮子を入内させるのはどうか」と。


かくして「異形」ゆえ「存在をなきもの」にされていた宮子が歴史の表舞台にでることになった。
まさに金谷信之氏の指摘するかぐや姫を「発見」した竹取の翁の役を紀麻呂がやったのである。


■藤原宮子が「夫人」で入内したのはなぜか?

こういう展開にしてしまうと「じゃあなぜ『夫人』で入内したの?紀麻呂の血縁の紀竈門娘は「妃」で「夫人」より上なのに。やはり身分の問題ではないの?」と。


これは「ディスカウント」藤原不比等の戦略思考で理解できる。


「ディスカウント」とは何か、というと文字通り「ディスカウント」で「価値をさげる」ことだ。宮子が「ディスカウント」された理由は「身分が低い」からではない。「異形のもの」「障害者」であったからだ。


こう書くとたくさんの反感がありそうだが、現実世界ではそういうことがある。障害者の就職等でも往々にして「ディスカウント」されるだろう。とにかく利害がぶつかる世界では評価は常に「マイナス計算」だ。


宮子の場合「異形のもの」というだけではないのだ。おそらく「存在しなかったはず」の存在がいきなり出てきている状況だ。なぜなら7年前に「娘を入内させる」と約束しておきながら、7年間何をしてた?早い話宮子は「眼中にない」のだ。おそらく本当の「入内候補」は次女の長娥子だろう。紀麻呂が「宮子という娘がおられるのでは?」といわなければ「長女の宮子を入内させる」なんて思いつかなかったはずだ。


つまり697年時点で「宮子は宮中に入内できる」ような教育訓練を一切うけていないのだ。


早い話が宮子は藤原ブランドからいうと「欠陥/わけあり品」なのだ。


いくら不比等でも、いや注目されることをさけて「実権」をとる不比等だからこそ、宮子の力量を考え「安く」売ることを考えたはずだ。実際息子たちの教育方針も昨今の二世議員のようではなくて「ゼロから勝ち取る力を養う」がコンセプトになっている。これは鎌足の息子という名門に生まれながら、「ゼロから勝ち取る人生を選ばざるを得なかった」不比等の得た人生訓なのだろう。


そこで「妃」になる紀竈門娘の元でOJTをやることになった、と考えたらどうだろう。

○OJT
職業訓練法のひとつ。現場で経験的に教育する。
OJT - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/OJT


これであれば紀竈門娘より宮子が身分が下、紀麻呂の娘が不比等の息子の「側室」というアンバランスも説明ができる。


「目的のために手段を選ばず」の不比等だからこその賢いやり方だった。不釣合いな高い身分にいきなりあげて何かあった場合藤原家に対するネガティブキャンペーンが発生する。これではやりにくい。はじめから低い身分からはじめる。失敗しても「不肖の娘」で逃げられる。


この年宮子は18歳になっていた。そして4年後の701年、のちの聖武天皇となり首皇子を生んだ。


■「不幸な成功者」藤原宮子

ところが首皇子を出産した後、精神のバランスをくずし不比等の館で晩年まで「ひきこもり」になる。その後息子の首皇子にすら36年間会うことがなかった。宮子に「ほれこみ愛してくれた」文武天皇は宮子に会わせてくれない不比等に強い怒りを感じたまま6年後の707年25歳の短い生涯を閉じてしまう。その別れのときにも宮子は姿を現さなかった。髪長姫のハッピーエンドとちがって現実の宮子は「不幸」だ。


よく私がいうところの「不幸な成功者」という状況だ。
三者の表面的な目では「幸せ」にみえるが本人の現実は「幸せ」ではないという現象だ。


いったい宮子の身に何があったのか?


まずほかの藤原宮子論にあるような「適応障害」によるうつ状態が考えられる。ものごころついてから育った九海士で髪無姫のハンデを負いながらも「ありのままの自分」で素直におおらかに健康的に育った世界。18歳からいっぺんして「自分自身を否定して隠す」世界。いってみれば「障害を乗り越えてがんばらないといけない」世界。もしもそれに自分が失敗したら「藤原ブランド」が失墜して弟や妹が困る、というプレッシャー。


もちろん「形を整えて」入内したはずだ。髪無姫のハンデはクローズして隠せているはずだ。でも「いつかばれてしまうかも」「もしかしたらリードしたかも」そう点検する日々。やさしい文武天皇は宮子の「秘密」には気がついただろう。でも文武天皇が愛しているのは「宮子本人」だ。まるごと宮子をうけとめているだろう。でも宮子の側からはアウトできない。


「ジロジロ見ないで」という本がある。治せない病気や消せない傷で「普通の顔」を喪った人たち9人のエピソードがある。その中に宮子と同じ障害と向き合う阿部更織さんというセラピストのエピソードがある。彼女は残念ながら現在この世にいない。恋人との「楽しみ」のときも気を使い、自分より周りの人のことをまず考える彼女のエピソードには宮子が負ったであろう「苦痛」が垣間見える。あまりに「普通にとけこんでいるからこそ」の精神的苦痛を体験していないものに語るのは非常に難しい。


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「わけあり」の宮子の存在を気にしていたのは宮子本人だけではなかった。不比等、「藤原四兄弟」と呼ばれた宮子の弟たち。宮子の心によりそうどころか、首皇子が生まれて「よし目的第一弾クリア!」、宮子が心のバランスをくずしたのを「やばい」、これ以上ボロがでないように宮子を不比等邸に「監禁」してしまったのだ。あまり文武天皇が宮子にいれこんで「あきて」しまったらおしまいだ、と思ったのか…。とにかく「目的のために手段を選ばず」で「道具」としてしか考えていない。それは次女長娥子、三女光明子に対しても同様だった。すべては「藤原一族」のためだった。


異形の穢れをはらうためにヒルコとして「なき者」にされた。藤原一族台頭の足がかり後宮制圧の露払いのためによみがえり、権力をもたらす命を生み出したら再度「なき者」にされる。すべては自分が異形のものである限り。


「異形のもの」と自覚しなかった九海士の日々が恋しい。


愛する人に会いたくても会えない、養父母はどうしているか。そして日々のストレスゆえにわきあがる「かえりたい…でもかえれない」の望郷の念。


そんな宮子の思いを受けとめた文武天皇の命を受けた、藤原不比等共に大納言になった紀麻呂が同じ701年に道成寺の創建にあたった、といわれる。


■737年、聖武天皇との36年ぶりの対面

737年、宮子は妹、光明子により僧というよりホームドクターの玄ぼうの治療を受けて「全快」した、とされる。そのため聖武天皇と宮子はやっと「親子の再会」を果たしたのだ。宮子57歳のときである。


宮子は22歳から「社会的」に死んでいたことになる。よく生きのびたなあ、というのが本音だ。かぐや姫のイメージもよくわかるし、聖武天皇が「大御祖(おおみおや)」=天照大御神を含んでいる、の称号を与えたものわかる気がする。天岩戸を押し開くことの如し、という気持ちだろうなあ…。


実は737年というタイミングだからこそ宮子は再び出ることができたのかもしれない。


なぜならばこの年弟の「藤原四兄弟」たちが天然痘で相次いでなくなったからだ。そのために「藤原ブランド」が失墜、急遽藤原ではないが、光明子の異父兄である橘諸兄らが政権を安定させた。つまり弟たちの死によってやっと宮子は「自由になれた」のだ。もちろんこうした時代の変化が何をもたらすかは宮子にはわからなかったかもしれない。そこで玄ぼうはセラピストの役割を果たした…。


もう「藤原のためにがんばる必要がなくなった」のだ。


宮中や役割のストレスでずだずだに心は傷ついたとしても宮子の美しい心は変わらなかった。それを見取った玄ぼうは「竹取物語」のストーリーをつくったとも考えられる。「別の世界からきた『美しき』異形のもの」として。たしかに陰謀渦巻く宮中に適応できずひきこもるほどのピュアで繊細な心の持ち主は都にはそういないだろう。


病状は一進一退を繰り返し、754年7月19日に宮子はこの世を去った。
遺体は火葬にされ、奈良市黒髪佐保山に埋葬される。
享年74歳。


人生40年もなかったであろうこの時代、すでに宮子のふるさと九海士では宮子は幸せになった「髪長姫」として「伝説」になった。「あの人は今」と追跡することもなくたぶん知る人はすべて彼岸の人…。宮子が実は「時の権力者不比等の娘」「生涯髪無姫だった」事実は忘れられ、「観音様のおかげで美しい黒髪が手に入り、そのおかげで天皇に見込まれて、国母になった」というストーリーになってしまったのだろう…と。


九海士の里で「ありのまま」で生きることとどっちが「幸せ」だったのか…。
いや、でも文武天皇聖武天皇、玄ぼうに会えたことは「幸せ」だったのかもしれない。


実は墓が「黒髪山」と聞いて私は「えっそこまで髪に執着するか?」と思った。黒髪佐保山は宮子よりもはるか昔紀元前24年、ということはクレオパトラの時代ですね、天皇の妻であった狭穂姫が天皇の追っ手から逃れるためにそり落とした髪を埋めた、というのが由来だそうだ。


周辺には元明天皇元正天皇陵があり、のちに近くに聖武天皇陵も作られている。
たまたまかもしれないが…。


狭穂姫命 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%8B%AD%E7%A9%82%E5%A7%AB%E5%91%BD


しかし伊達政宗が両の目のそろった像を作らせたのと同じように宮子にとって「こだわり」のものだった黒髪。宮子の霊をなぐさめるために、という可能性がないとはいわない。


もちろん最初にも書いたとおりあくまで私が感じた藤原宮子=髪長姫だ。
この時代の歴史研究には第一資料の整合性に問題があるなど、未解決のことが多い。
エジプトのミイラのようにDNA鑑定はできれば正体がわかるかも…というわけにもいかない。
養子養女関係があると逆に混乱する可能性があるのだ。


物語をつくりたくなるほどに美しかったのだろうな…と思いたい。
異形のものの悲しみは異形のものにしかわからない。
けれども別のなにかをうけとめる人もいる。


宮子は「幸せ」だったのか?
宮子本人でないとわからない。
想いをはせるそれぞれの胸の中で感じることしかできない。


最後までお付き合いいただきありがとうございました。

<終わり>

※おまけ

髪長姫に似合うようなピュアな人の私のイメージは宝美さん。
たまたまみつけたのだけど…。


画像検索かけると「髪長姫」でも「髪無姫」でも美しいと感じる…。
http://images.google.co.jp/images?hl=ja&lr=&um=1&sa=1&q=%E5%AE%9D%E7%BE%8E&btnG=%E7%94%BB%E5%83%8F%E6%A4%9C%E7%B4%A2&aq=f&oq=


癒し系はなかなかいないよね。
もしも宮子がこのタイプだったら文武天皇がいれこむのわかる気がします…。


○宝美"心の鍵"2008.4.20