「喜怒哀楽、お気の毒」死生観と臓器移植


最近は「余計な荷物をおろそう」という発想をしている。


「人は『欲』をベースに動いている」
「健常者は話を聞かない」


その大きななぞが解けたからこそ、コミュニケーション講座1というのをはじめたのだけど…。


[コミュニケーション講座1] - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り


特に「私の話を聞いていない人は遠ざける」。
厳しいようだけれども、私にも私の人生があるし、あなた一人にだけかまっていられない。


あなた一人の私ではない。
私とほかの人のかかわり方をあなたには見えていますか?
私をとりまく人たちと私が「何をしようとしているか」見えていますか。
「自分の欲だけをとおそうとしていませんか?」


「私の話を聞かない」何をしているかというと「自分のことしか話さない」わけだよ。
愚痴しかいわない時間泥棒。
長い付き合いがありながら「私が愚痴を聞かないスタンス」の人間だと気付かないのだろうか。
「一番つきあってはいけない人間だね」


もっとも「聞き役」に徹しすぎて、「自分の話をきりだすのが下手」という私のあり方にも問題はあるのだけどね。


猛禽類の見え方

世界観の見え方というのはいろいろな見方があるわけだけれども、私の「世界観の視野」というのはタカやハヤブサのような猛禽類の見え方をしているようだ。


猛禽類の目というのは「まず上から目線である」。
空から全体をみているわけだ。


特徴的なのはここだ。
獲物を見つけた瞬間に望遠レンズをあわせるようにその獲物にフォーカスされる。


http://www.nidek.co.jp/eye-falconine.html
http://www.nidek.co.jp/eye-falconine.html


そしてその獲物めがけて急降下、獲得、というわけだ。


「上から目線」で見ているものは何か、というと「日本全体」なのだ。
獲物になるものは何か、というと私の場合は「異端な少数者」だ。


「世界」を念頭におき、「日本全体」を視野にいれて「異端な少数者」にフォーカスして行動するわけだ。


欠点は…「『狩り』に入ったときに獲物以外がみえにくくなる」ことと、「行動が人からみると急激かつ突発的にみえる…じっくり普段から考えて動いているつもりなんだけどなあ…」


こういう視点の見え方って人それぞれ違うので友人と話したりして点検してみるとおもしろいです。


たとえば聴覚障害者にとっての会合は「風景のようにみえる」というのもある。
「映画のスクリーンをみている感じ」の人もいる。
ゲームのチェスのようなイメージをもつ人もいる。
逆に「自分はガンダムマジンガーZを操縦している」身体感覚をもつ人もいる。


すべての人の意識が身体に統合されているわけではないのだよな。


■「喜怒哀楽」「お気の毒」
昔々日本の北陸地方では国家制度的にに大変うれしいことがあった。ところが九州某所ではそのために人が命をたつという悲しい結果をもたらした。


こういうとき私はどういう判断をするか。


無邪気に喜んでいる北陸地方の人間に対して、「九州の人間が悲惨なことになった。少しは全体を考えろ


ところが今の日本人にはその発想が一番難しいらしい。


北陸地方の人間にいわせれば「なぜ自分たちがうれしいことがあったのに自分たちと関係のない九州の悲劇で水をさされなければいけないのだ」と思ってしまう。


でも私にいわせると「日本全体」だから関係なくないのだ
「うれしいのはわかる。でも考えてくれ」と思う。


喜びの裏にはかならず誰かの犠牲があるということ。
だから喜怒哀楽も極端に表現するのはよくない、と。


「『私』の喜びの影には絶対に誰かの悲しみ、にくしみ、そねみ、うらみがある」


「障害」をもつがゆえにケアをうける人には「障害」をもたないゆえに「無関心」に悲しむ人がいる。


「障害」を持つがゆえに犯罪加害者の責任を放棄、みたされないにくしみに苦しむ人がいる。


「障害」をもつがゆえにケアをうける人には「障害」をもたないゆえに「ケアをうけられない人」のそねみがある。


「障害」であるがゆえに自由になれなかった制度をぶちこわしたために、「健常者」という特権を失ってうらんでいる人がいる。


「悲しみ、にくしみ、そねみ、うらみ」。
人をぼろぼろにする猛毒、まさに「お気の毒」だ。
人間が「人のなかで生きる生物である以上」「無関心」という暴力は特に起こりやすい。
「障害」をもつ人は「障害」ゆえに「人にわかりやすい形で愛されやすい」という側面がある。
※愛されていなければ人はとっくに死んでいる。今「生きている」ということは誰かに愛されているから。ただ、「愛されている」と本人がわかりにくい、という側面がある。


まさに「自分が自分が」「僕を認めて」が人間が人間である根源的欲望なのだ。
だからこそ「理性で制御しろ」。
理性は人間しかもたない。


「お気の毒」がチリも山に蓄積すればまさに「排斥行動」の起爆剤になる。
過去のうっぷんばらしからジェノサイド(大量殺戮)がおきたという経緯も多くの歴史から学べるだろう。
(だから私うっぷんばらし行動も大嫌いです。)


それゆえ私は「障害」は「解決するべき現実」としてアイデンティティにしないのだ。
アイデンティティにして感心を集めたらその「お気の毒」の毒牙に苦しむことになる。
さらに「お気の毒」がじゃまをして私が自由になれない。


「感情のまま」に喜怒哀楽をあまり表現しないで、なるべくロジカルに考えるようにしているのも「喜怒哀楽」そのものが人間の害毒だからだ。


ただ、人間そのものは「感情の生き物」なので喜怒哀楽を表現しないと、「その人の思想や気持ちがよめないから理解できない」という問題もおきるらしい。


昔は「口で話している通りにうけとってくれ」と伝えていたのだけど、どうも「健常者」の人間それが難しいらしい。


非言語を情報をよもうとして「動く」という習性があるから「話を聞かないで」、だけどほかの手がかりとなる「喜怒哀楽」が表現されないと「何を考えているかわからない」となってしまうようだ。


個人的に人にふれられたくない自分の世界を強固にもつ人だから、「いったことに対して反応があるほうがすごく楽」なのだけど…。逆に踏み込まれたら「強い不快感感じる」。


でもこういう人間も「少数派らしい」。


多くは「察してくれ…」か。余計なことなんだけど。
「健常者」ってめんどくさいかも、と最近少し思う。
それで「聴覚障害者は人間関係は希薄だ」となってしまうのだろうな…。相対的に。
「聞く」にものすごい負荷がかかるから「かんべんしてくれ」と思う。


無声音で「ぐち」を聞いてみ、たぶん「読み取るのに必死」で非言語まで気がまわらない。
しかもウルトラマン並みに「話をきける時間(約20分)が限られている」。
しかも文字情報がダイレクトに「事実」として伝わる。
感情をのせられると受け取る負担が重い。
「必要なことだけを伝えてほしい」という想いもわかってほしいな…と。


「日本人全体」がそうなので、あわせるしかない。
コミュニケーションスキルの一環として喜怒哀楽を位置づけている。
「毒もスパイス」ですから。


基本はなるべく「理性的」「フラット」に「平安」に…。


「お気の毒」をばら撒いて社会秩序を混乱されたらまさに社会の害毒、「甘え」の世界でございます。
毒をくらったらリセットします。


臓器移植法の「喜怒哀楽」

http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090618k0000e010066000c.html
http://mainichi.jp/select/seiji/news/20090618k0000e010066000c.html


先日18日、臓器移植法改正法が衆議院を通った。


最大の焦点は、現行法が認めない脳死した15歳未満の子どもからの臓器提供」を可能とするか。
今の日本では乳幼児が自分の体のサイズにあう臓器の移植を受けるには、海外に渡るしかない。
だが、「国際医療ビジネス」の【全体像】は「自国の問題は自国で」と国内解消の方向にすすんでいる。
しかも国際医療のルールを定める世界保健機関(WHO)は自国内での臓器移植拡大を求める指針決定に動き出した。そのため将来、渡航移植が認められなくなる可能性がでてきたのだ。

A案:
脳死を一般的な人の死と定義
本人が生前に拒否していなければ、年齢に関係なく家族の同意で臓器摘出が可能。


D案:
現行法通り臓器提供の意思を示していた人に限り脳死を人の死と認める。


D案では「課題」である「子どもの移植拡大」の問題が解決しにくい。
そのためA案が可決した。


わが子を助けたい一身の親心としてはうれしい限りだろう。
「もっと早くに」という無念の想いを抱いた人もいるだろう。


イスラーム圏のGID海外事情 その1 - さとしの哲学書簡ver3 エジプト・ヘルワン便り
http://d.hatena.ne.jp/stshi3edmsr/20090614/1245298483


以下の繰り返す基本思想のもとに僕も喜ばしいことだと僕も思う。

「医療・教育・障害者・少数者の国際標準」をいうことを考えているからだ。


「国際標準」、ある程度の世界に共通した「1つの規範」が必要だ、ということだ。


たとえば、障害者であることを理由にある国では手厚く保護されるが、ある国では逮捕・虐待・抹殺される「アンバランス」があってはならない、ということだ。


また、ある国ではOKだが、ある国ではNG、たとえば「子どもの臓器移植問題」のように「日本ではNGだから、アメリカやドイツ、インドへ」ということがあってはならないということだ。


理由は「障害・少数者」であることを理由に故郷や共同体、母国語を失い、人と人のつながりを得られなくなるという厳しい現実にほとんどの人間は耐えられないからだ。


ただ、一方でこういうケース。
みなさん、この人たちの前でこの法案の可決を「無条件に喜べますか?」

喜びの裏にはかならず誰かの犠牲があるということ。
だから喜怒哀楽も極端に表現するのはよくない、と。


この方の前で同じ喜び方ができるのであればそうしなさい。


http://mainichi.jp/select/today/news/20090619k0000m040100000c.html
http://mainichi.jp/select/today/news/20090619k0000m040100000c.html

「今後も移植が必要な人は、どんどん増えるだろう。さらに臓器が足りなくなれば、死の線引きが変わり、私たちの方へ近寄ってくるかもしれない」


みづほ君は、この1年、状態は安定している。女性は「この子は『延命』しているのではない。こういう『生き方』をしている。参院の審議と判断に期待したい」


管理の国、日本。この特徴がよく出ている。
GID聴覚障害、ほとんどの障害/医療倫理にはこの問題がでてくるのだ。


参院の審議と判断に期待したい」ということは「管理してほしい」わけだ。「みづほくんが殺されないように」。
管理されることでみづほくんの状態は「生のあり方」として守られる。
「保護」という管理を求めがちになる非常に悲しい日本というシステムの最大の欠点だ。


管理の国。「なかぬなら なかせるべきだよ ホトトギス」。
みづほくんのご両親は「ほかの子どもの命を救う」という大義名分のもとで「なかせるべきだよ」の攻撃をうけることを恐れているのだ。「ほかの人のためにわが子を殺せ」といわれることを。


実際に「実際に『死の宣告』をされて、臓器移植の話をもちだされる」こともあるだろうが、断った場合に今までのようなケアがうけられなくなって、みづほくんの命を縮める可能性もあるだろう。


義務の国。「なかぬなら ないてほしいな ホトトギス」だったらどうだろう。
「まだ私たちにとってこの子は生きておりますから」と断ることができるかもしれない。
だってもともと臓器はその子自身のものだ。臓器移植はあくまで「その人の意思によるボランティア精神」だ。ボランティアはやってもやらなくてもいいではないか。
やりたくなければボランティアする必要はないのだ。ただ、やったほうが全体&自分たちにとって「いいことあるかもよ」の世界だ。


義務、といわれると「押し付け」と感じるのは管理の国、日本だからだ。
「なかせるべきだよ」ではない。
「なかせるべきだよ」という圧力から開放されるしくみが必要だろう。


■My 死生観のデザイン&意思表示を
これには普段からの死生観の教育&意思表示が必要になる。
それがわかると医師としても「話がしやすい」。


実は数年前私のルームメイトの弟が不慮の事故で「脳死」になった。最終的に生命維持装置をとって彼は17歳の生涯を終えた。臓器提供をした。その理由をルームメイトはこう語った。


「生命維持をしても「脳死」では一週間もたない。その間の闘病生活で臓器は痛む。また生命維持の医療費はうちでは負担できない。そのまま「無」にするよりも彼の命で誰かが助かるなら…」


ただし、これは認めたくない緊急の悲しみのなかで「ぱっ」という浮かぶのは宗教心が深くて普段から死生観を鍛えている場合なのだ。


無宗教といっているがゆえに日本人はその「My 死生観」を意識することに乏しいようだ。


たとえば伊東聰をつくった職業軍人の家系、古代エジプト神道イスラームを背景にもつ、と語れば大体の「死生観」はわかるだろう。「大儀のために命をすてることはできるが、身体そのものの形をこわすことは許さない」。そうすると検体、臓器移植、ドナー登録にもどう考えているかおのずとわかるだろう。


そうするとある程度の予期をもって話ができる。


ところがそれがないと、「医師が患者の意向を無視した」と感情を害して医療訴訟につながりかねない。
医師が逆切れした患者の暴力の犠牲になる最悪の展開も起こりうる。


「喜怒哀楽」のあり方ひとつとってもわかりあえないのが人間だ。
統一された「死生観」などつくれるわけがないのだ。


世間体、「べき論」ではない、My 死生観のデザイン&意思表示をできるしくみがそろそろ必要な時代かもしれない。