レベル0 遷延性意識障害を考える その3


■なぜレベル0が設定されたのか

レベル0に設定した「遷延性意識障害(せんえんせいいしきしょうがい)」。
俗にいう植物状態のことです。


遷延性意識障害 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%B7%E5%BB%B6%E6%80%A7%E6%84%8F%E8%AD%98%E9%9A%9C%E5%AE%B3


以下抜粋。

日本脳神経外科学会による定義(1976年)。
自力移動が不可能である。
自力摂食が不可能である。
糞・尿失禁がある。
声を出しても意味のある発語が全く不可能である。
簡単な命令には辛うじて応じることも出来るが、ほとんど意思疎通は不可能である。
眼球は動いていても認識することは出来ない。
以上6項目が、治療にもかかわらず3ヶ月以上続いた場合を「植物状態」とみなす。

wikiに書かれている図をみるとくわしいが、植物状態と宣言されるのはかなり重症の場合のようです。


レベル0に設定したのは次のことを知ってほしかったからです。


遷延性意識障害でも反応がない場合でも人格は存在すると考えるべきである。
遷延性意識障害でも周囲の状況を把握し、自分自身を感じている場合がある
・音声言語原理主義はコミュニケーション能力障害者の人格を全否定する残酷な主義である


遷延性意識障害の当事者に「人格はあるのか」?
すべてに「人格」という働きがあるかどうかはわかりません。
答えは「ある」と扱ったほうがさまざまなケースをみているとよいと思います。
それは「利」をベースとして論理的思考をした結果でも同じことがいえます。


もしも「人格がない」を仮説をたてて、自分がその立場になったらどうでしょう。
「人格を無視された扱い」に耐えられると思いますか。
しかしコミュニケーションが双方向でない、という制限が付きまといますので、100%ぴたりと保障される…というのは困難かもしれません。しかし、せめて障害を持つ前の理念/哲学は大事にしてほしいとおもいませんか?


健常者とされる人々にとって、遷延性意識障害の当事者の存在は「自分の人格が否定されるのでは?」という潜在的恐怖を感じるのでしょう。双方向のコミュニケーションがとれない以上遷延性意識障害の当事者を介護する方々の間にも「本当にその人のためになっているか」と複雑な思いにかられるようです。「せめて喜怒哀楽さえ表現してくれれば介護する側も心が救われる」という声を聞いたことがあります。


1999年に東京都知事府中療育センターを訪問し発言した内容は問題発言として抗議をうけました。けれども「答えはでない」としたその内容は健常者としての本音だったと思うのです。自分がその立場だったら「彼らのように生きられるだろうか」と思わせてしまうところがあります。


実際のところどうなのでしょうか。


■黒タグは注意〜トリアージ

昨年ある技術試験の講義で「トリアージ」の話を聞きました。


トリアージ - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%B8

抜粋。

人材・資源の制約の著しい災害医療において、最善の救命効果を得るために、多数の傷病者を重症度と緊急性によって分別し、治療の優先度を決定すること。

トリアージタグ
黒 (Black Tag) カテゴリー0
死亡、もしくは救命に現況以上の救命資機材・人員を必要とし救命不可能なもの。

赤 (Red Tag) カテゴリーI
生命に関わる重篤な状態で一刻も早い処置が必要で救命の可能性があるもの。

黄 (Yellow Tag) カテゴリーII
今すぐに生命に関わる重篤な状態ではないが、早期に処置が必要なもの。

緑 (Green Tag) カテゴリーIII
救急での搬送の必要がない軽症なもの。

JR福知山線脱線事故で使われたのが有名です。


「ですのでみなさん、「黒タグつけられたら、絶対に運んでももらえませんので、もしも生きていたら絶対に抵抗してくださいね。」でクラス中大爆笑。


■ある知人の体験から
では実際そのような場面にたったときに「抵抗」できるか、
というとそうではないようです。


私の40代のある知人の話です。
知人は遷延性意識障害の状態を体験しました。


ある日いつものように親父なバカ話を友人たちに
披露していたときだったそうです。
耳の後ろで「ぶちっ」という音が聞こえたそうです。
その瞬間自分の身体が糸のきれた操り人形のように
くずおれ椅子から転落するのを感じていたそうです。


見ていた知人の友人は悪ふざけだと思って笑いました。
しかし汗でぬれ死体のように動かない友人をみ、
事態の深刻さに気付き大騒ぎになりました。
倒れた知人はその一部始終を認識していたそうです。
しかしまさに死体になったごとく指一本動かすことができない。
救急車がきてなすがまま彼は病院に運ばれ、ICU(集中治療室)へ。


家族がよばれ、知人は耳をうたがう言葉を耳にしました。


「こん睡状態です。意識が戻らないかもしれません。」


ええええええええええええええええええええっ〜〜〜〜〜〜〜!!!!!


「俺こん睡状態なの?植物状態になるの???」
知人の意識の中では知人の思いや感情ははっきりありました。
医者の話す言葉もすべて理解できたそうです。
けれども知人自身は一瞬たりともその刺激に反応することができなかったそうです。


数日後、知人は意識を取り戻しました。
原因は心臓のトラブルだったそうです。なぜ耳の後ろで音が聞こえたのか不明ですが…。


今は何事もなかったように生活しています。


つまり傍観者からは反応がないと見える人も実はいろいろなことを感じてものを考えている。
すべてがそうではないけれど、そう思ったほうがいいという事例として紹介させていただきました。
旅たつ死者も聴覚は最後まではたらいていると瀬戸内寂聴氏は著書で述べたことがあります。
「だから、悪口をいってはいけないですよ(笑)」と。


■音声言語を使えないと「人ではない」
遷延性意識障害からの回復例」というHPがあります。


遷延性意識障害からの回復例(2000年代)
http://www6.plala.or.jp/brainx/recovery2000.htm


この中の1970年代の記事の内容をみてほしいと思います。
遷延性意識障害からの回復例(1970年代)
http://www6.plala.or.jp/brainx/recovery1970.htm



「すでに4ヵ月前から意識があった、言葉を発しないと人間扱いされない」というタイトル。

(抜粋)
彼の泣き声や行動には意味があるのではないかと疑う看護者に、主治医は看護者の希望的観測として取り合わなかった。
 看護者は患者の手とその視線が自分の胸ポケットのボールペンに向かっていることに気付いた。ペンを持たせると「俺、どうして入院している。いつから会社にいける・・・・・・」と書いて大声で泣き出した


(略)

 多くの人は意識障害の患者に対して無意識のうちに言葉を求めています。意識障害者に対する考えを改めない限り、かれらは言葉を発しないうちはもとの人間社会の仲間入りをさせてもらえないというのが現状なのです。


これを私は音声言語原理主義と名づけました。


音声言語原理主義に適応できるコミュニケーション能力をつけないと一人前の人間として尊重されないのが今の日本のめざす「コミュニケーション」を基盤としたまさに「富国強兵」をめざす社会の真の姿なのです。


にもかかわらず「コミュニケーション」のなんたるかを教育することもなく、すべてを個人個人の啓蒙努力にゆだねます。


そして今までその見込みのない人たちを医療・教育・社会から排除してきたのです。
そのため「こうすればいいのでは?」というアイデアがあったとしてもすべて黙殺されてきました。


おかしいとおもいませんか?


レベル0には人間が人間であると意識するべき最初の存在がここにあるよ、という想いをこめております。


<つづく>