全容をつかむ その1
このサイトでよく見かける言葉として「コミュニケーション能力」、「コミュニケーション能力の障害」という言葉があります。
「コミュニケーション能力の障害」の障害を克服するためにはどうしたらいいのか。
まず「何を知るべき」でしょうか。
一番重要なことは「コミュニケーション」の全容を知ることだと思います。
全体を知らなければ、「何ができて/何ができていないか」を知ることは不可能です。
しかしこの全体を把握して整理することはかなり難しいことでした。
最近やっとフレーム/スケルトン(骨組)が見えてきたので書いてみます。
■コミュニケーションにこだわった動機
私がコミュニケーションにこだわったのはやはり自分の「障害克服」でした。
読者にはおわかりのように私は聴覚障害をもっています。
しかし「健常者の中で生きていけるレベル」のコミュニケーションでは満足しなかったのです。
なぜか。
「健常者の中で生きていけるレベル」に想定すると「他人のうけいれ」の元で生きなければならなくなる、つまり自分自身の人生を生きられないと考えたのです。
自分自身の人生を生きるためにはどうしたらいいのか。
自分自身が人生の支配者にならないといけない。
そうするとまず第三者から自分の人生を奪い返さないといけない。
そのためには何をしなければならないか。
第三者と話をしないといけない。
最大の動機はそこでした。
「私の人生を私が生きるため」。
ここで第三者というのは私に「私の望まないモデル」を押し付けようとした両親であり、教育関係者でした。
つまり彼らを「説得する」力がほしかったのです。
さらに私をとりまく「しくみ」にも問題がありました。
たとえば現在特別支援学級となっている難聴学級のあり方。
そして学校の校則のあり方。
それは「長髪男性のメタモデル」をもつ私には重要なポイントでした。
「長髪男性のメタモデル」については今後説明しましょう。
それを追求していくと「学校経営」の問題、行政、ひいては日本の学校教育のあり方にまで課題が発生します。ここで「しくみ」を変えるという話ができる能力が必要でした。
「私をとりまく環境を変えるため」。
そして、自分の人生/環境を自分で支配する、という願望は究極的には自分が指揮権をとって社会を動かしたいという欲求につながります。
「社会を動かしたい」というは「人を動かしたい」になります。
「人を動かす」ためにはコミュニケーション能力は必要です。
「人を動かすリーダーシップ能力がほしかった」。
そして最後に私が真に願う「人間が人間として尊重される社会」。
それをつくるためには「健常者/障害者」「多数者/少数者」「一般/異端」の二元論の排他的関係性を破壊する必要があると考えました。
二元論の排他的関係性を作るものは何か。
やはりコミュニケーション能力の格差です。
同じ言葉を話す人間は信用できてそうでないものは信用できない。
ちょうどタロットカードの「タワー(塔)」にこめられた意味のように。
塔 (タロット) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A1%94_(%E3%82%BF%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%88)
バベルの塔 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%90%E3%83%99%E3%83%AB%E3%81%AE%E5%A1%94
コミュニケーションの格差を互いが埋めることができれば少なくとも「障害者/異端者」は「人の中で生きることができる」。逆にコミュニケーションに障害があればその人にどれだけ能力があってもそれを発揮できません。
コミュニケーション障害がなぜ放置されるのか?
それはコミュニケーションに本質を知らない人が多いからだ、と考えます。
コミュニケーションの形にどういうものがあるかを知るだけで多くの人は自助努力で歩いていけます。
言葉の暴力で死ぬ人も減るかもしれません。
「コミュニケーション障害で苦しむ人を減らしたい」
友人がいいました。
「言葉はなんのためにあるのか。人と人が理解しあうためだ」。
言葉には言霊がやどります。
言葉がなくとも通じるものがあります。
そういうものを伝えられたらと思います。
■前提条件
これはかなり実験的な試みです。
コミュニケーションをwikiで検索するとさまざまなコミュニケーションの項目があります。
Category:コミュニケーション - Wikipedia
ここでは最終的なゴールを「仕事でつかうコミュニケーション」に焦点をしぼり、そこにいたるまでの重要な知ってほしいエッセンスを「障害者」レベルから書いていくことにします。
通常、コミュニケーション能力を語る場合「障害者」と「健常者」を完全にわけて論じられます。
これはコミュニケーション能力障害者にとってはハードルが高すぎるのです。
そのために「自分はダメだ」と訓練できるはずのコミュニケーション技術を取得することができないまま、人生そのものをスポイルしてしまいます。
また過去の聴覚障害者の教育方針にもあったように「正しく発音すること」に教育の時間を割いた結果、社会性/世界観の成長をとめてしまった虐待ともいえる対応があります。
これは教える側が「コミュニケーション能力とは」を知らなかったためです。
盲ろう者でハーバード大学大学院を卒業したかの有名はヘレン・ケラー氏が音声言語で会話訓練したのは11歳のときで動機は本人の自発的な信念でした。それまでサリバン先生をはじめ、周囲の人が教育していたのは社会性/世界観の成長をうながすことでした。
こうした過去の前例/成果があるにもかかわらず、「普通の人のように語れる」=「正しい音声言語の発音」にとらわれて「ろうの子供の知性は九歳の壁がある」としたコミュニケーションのイメージの貧しさには唖然とします。
「発音」はその人がしゃべりたいと思えばあとからいくらでも練習できます。しかし好奇心をもとに知識/経験をINPUTするのはモチベーションのあるそのときしかできないのです。音声言語にこだわる教育は世界観を広げるモチベーションを破壊し、聴覚障害者の「人間との関係性」と「人/社会の中で生きる人生」も破壊しました。許すことのできない罪です。
しかしいつまでも被害者になってはなりません。
「被害者にならない」努力が必要です。
その努力の一環として「コミュニケーションの全容をつかむ」は必須だと私は考えます。
<つづく>